日付:2002.7.12 題名:よど号ハイジャック犯達の帰国
 よど号を乗っ取って北朝鮮へ亡命した9名の日本人の内最後まで残った4名が帰国を申請しているとのニュースがありました。過激派左翼の彼等がいずれも50歳台半ばとなっており、私と同じ「団塊の世代」です。
北朝鮮と亡命と言えば「北朝鮮を脱出して他国へ亡命する」のが定番であり、数十万の人々が既に厳しい監視下の中で祖国を捨てて脱出しています。しかしハイジャック犯達はその北朝鮮をユートピアと思い亡命したのでした。
「かりの会」という彼等のホームページがあります。彼等の「主張」「随筆」「近況」等が書かれています。以下「随筆」W杯対ロシア戦より抜粋
「(前略) 四年前のフランス大会では一つの勝利もおさめられなかった日本チーム。わずか四年で世界の強豪と肩を並べるまでになったのは、本当に素晴らしい。大きな努力の果てにこの勝利があることを強く思いながら、選手とサポーター、テレビを見ながら観戦した人々、と日本人みなが、日本の勝利を願って心を一つにできたことに、言い知れぬ大きな喜びと力を感じ、自分もこの素晴らしい日本人の一人であることに誇りを覚えた。(後略)」筆者: カモメ

この文章を読む限り彼等はサッカーの勝利で一瞬のナショナリスムに陶酔する普通の日本人のように思えます。しかし彼等の「主張」等を読みますと「土井たか子さん」が書いたのかと思うような聞き飽きた左翼アジテーションの羅列です。きっと彼等は学校で先生の言う事を真面目に聞き、素直に信じ切ったのだと思いました。戦後の日本では特に教師を含むインテリと自負する人々の間では特に「ソビエト、中国、北朝鮮」の悪口は言わない、言ってはいけない風潮が強く、その代わり「米国」の悪口はたくさん言うのが平和を愛する「少し 左翼のインテリ」で素敵な人とされてきました。(筑紫哲也氏を想像下さい)
北朝鮮に行った彼等は学校で先生から教わった事を信じ、実行しただけなのだと思います。こんな言い方は好きではありませんが「戦後教育の犠牲者」なのだと思います。アメリカから「テロリストを匿う」悪の枢軸と言われた北朝鮮にとって「邪魔者」となった彼等が北朝鮮を追われるようにして帰国するとは運命の悪戯なのでしょうか?
日付:2002.7.19 題名:周恩来と石原慎太郎
 世論調査では次の総理大臣として相応しい人のトップが石原慎太郎氏で27%を超える支持で2位の小泉現総理を大きく引き離しています。中国や北朝鮮に対しても思うまま発言している為、中国や北朝鮮の受けはすこぶる悪いようで先日石原氏ご本人のテレビでの発言によると、江沢民主席は「石原、あれは殲滅する。」と言っているそうです。中国、北朝鮮の受けは悪いのですが国民には思うことをはっきり言わないほかの政治家より好感を持たれるのです。北朝鮮の拉致問題では「強く交渉してだめなら宣戦布告をしてでも取り戻すべき」との主張は間違っていないと思います。何の罪もない自国民が他国により拉致されたなら最終的には武力に訴えても救出してこそ国民の為の政府であり、国民も自国に対して誇りと愛情を持てるのだと思います。仮に拉致したのが米国であっても全く同じ行動を取るべきだと思います。
 石原氏のこれまでの発言に対し江沢民主席は御怒りのようですが、日中国交回復まもない頃、日中航空交渉が中国ペースで進み、日本国内に「もっと日本の国益を主張すべきで,通らなければ交渉打ち切り」との考えが当時の自民党の青嵐会を中心にあり、青嵐会の有力メンバーだった石原氏もその一人でした。
 その頃訪中した日本の代表団が北京で周恩来総理と会見した折、日本のメンバーの一人が「私達は青嵐会の連中とは違い、日中航空交渉が早急に妥結することを願っている。」と述べたところ、周恩来総理は「今はどうか知らないが、私は若い頃、日本にいたので日本に立派な人がいたことを知っている。もし私が今日本人なら彼等(青嵐会の人々)と同じ主張をしたでしょう。」と言ったそうです。
 この一言で周恩来総理の器量が理解できるように思います。周恩来総理の一言で、もうひとつ忘れられないのはこの件より更にさかのぼり日中国交回復前の頃です。訪中した保利茂氏(元官房長官)と会談した周恩来総理は部屋を出ようとする保利氏に「天皇陛下に宜しく」と言われたそうです。この一言で日中国交回復反対を主張していた親台湾派の自民党の政治家達は一気に崩れ,日中国交回復は決定的になったのでした。周恩来総理のような本当の政治家は今や,日本にも中国にも見当たらなくなってしまったのでしょうか?石原氏がセンセーショナルな人気だけでなく、周恩来総理のような政治家になって欲しいと思わざるを得ません。(文責 井上 豊夫)
日付:2002.7.26 題名:真実を書かない新聞・石原慎太郎氏への若干の弁護と批判
(1)真実を書かない新聞
新聞が自由に政府を批判できることは「言論の自由」を保障された国家にとって当然のことであり、未だに「言論の自由」が保証されていない国家が存在する以上、そのようにならないようにすべきであることは自明のことだと思います。しかし、最近の状況を見ると鈴木宗男氏、辻本清美氏、田中真紀子氏の問題などは新聞ではなく出版社系の雑誌が発端になっており、新聞は後追いで批判するパターンが繰返されています。
以前、田中角栄氏の金脈問題を立花隆氏が月刊「文芸春秋」紙上に発表した時、「その中で指摘された問題のほとんどを田中氏の近くにいた大手の新聞記者は知っていた。」と言うのは有名な話です。「知っていながら書かない」一種の馴れ合いがあることは有利な取材の為の必要悪となっているのでしょうか?
大阪高検の公安部長が逮捕された事件でも逮捕された公安部長が検察庁捜査費の私的飲食使用の悪習を告発する直前に「逆逮捕」されたと公安部長は主張していますが新聞はこの主張を一行たりとも書こうとしません。
「言論の自由」の有り難さを再認識し、馴れ合いによる「自主規制」を止め、身の危険があっても「真実を書く姿勢」を忘れないで欲しいと思います。

(2)石原慎太郎氏への若干の弁護と批判
先週「周恩来と石原慎太郎」を書いたところ、一部の読者より反応が有りました。その中に「石原氏の三国人発言は許せない」と言う意見がありました。これも上述の通り「真実を書かない新聞」の一例ですが石原氏の発言は「不法入国した三国人が犯罪を犯している。」であったのに新聞は「三国人が犯罪」は差別発言と騒ぎ立てたのでした。「不法入国した」部分は勝手に排除されてしまったのです。この点だけは石原氏を弁護したく思います。
しかし7月14日の「サンデープロジェクト」での石原氏の発言の中に三島由紀夫氏に関する部分があり「僕が政治家になったので三島さんも政治家になろうとしたふしがあった。(中略)ボディービルで作った筋肉なんか何の役にも立たない。三島さんは最後までボールも投げられなかった。」「死人に口なし」とは良く言ったものです。反論できない三島氏に代って一言言わせてもらいます。作家としての三島氏と石原氏の存在感には明らかに差があり、日本人初のノーベル文学賞の有力候補だった三島氏が政治家になり結局国会ではなにもできなかった石原氏を羨む必然性は全く無かったと思います。
三島氏が鍛えて付けた筋肉を嗤うのは勝手ですが自らの努力で付けた筋肉はある意味では天賦のものより価値のある見事なものでした。三島氏の名誉の為に言わせて戴きました。(文責 井上 豊夫)
日付:2002.8.2 題名:もういい加減にして!高校野球
 今年も甲子園の全国高等学校野球大会が始まりますが、旧態然とした高校野球にうんざりしています。
昔のプロ野球ではエースの連投が当たり前で、私がかつてファンだった旧南海ホークスの杉浦投手は日本シリーズで4連投4勝を挙げ、宿敵巨人を4---0で破った事がありました。ペナントレースでも酷使された杉浦投手は年間38勝4敗という今では信じられないくらいの大記録を成し遂げたにも拘らず、酷使が右腕の血行障害を引き起こし、通算200勝を達成できずに引退しました。私は今でも「杉浦投手こそ日本のプロ野球史上No.1」と信じています。
 杉浦投手の問題が出た頃から「投手の中5日登板」が当たり前になりました。たまに中4日登板があると話題になるくらい今はプロ野球の投手は大切にされています。
ところが日頃“人権”を売り物にしている朝日新聞社主催の高校野球は夏の炎天下連日予選を行い、未成年投手の連投を平気で見過ごしています。今は準準決勝と準決勝の間に一日休みを取るようですが決勝に出るチームは4日間で3試合に投げる可能性があります。サッカーのワールドカップでもこんな馬鹿げた連戦はありませんでした。準決勝と決勝の間に3日間の休日を取っていました。古い習慣を何の反省も無く続ける朝日新聞社は如何考えているのでしょうか?高校野球の連投の為に肩を壊し、野球人としての将来を失った人は数多くいると思いますが「彼等の声は無視され続けています。」学生時代にヒッチハイクで四国旅行した折、宇高連絡船に一緒に乗った大型トラックの運転手も「元高校球児」で連投の結果、肩を壊し野球を諦めた人でした。春のセンバツを主催している毎日新聞社も同罪です。
 高校野球OBは数多くいるはずです。「自分たちが我慢してやってきたから、後輩たちもやって当然と思っているのでしょうか?」今こそ沈黙せず、予選から大胆な休息日を設けるか、連投を禁止するルール作りを始めるべきだと思います。
(文責 井上 豊夫)
日付:2002.8.9 題名:世界的技術者に高給を!
 小型モーターの世界のトップメーカーであるマブチモーターの社長宅で事件があり、新聞報道されました。トヨタ自動車、ソニー、松下電器クラスでも小型モーターに関しては「マブチ」の言いなりになるくらいの技術力と世界的シェアーを持つ、実力企業の一つです。大連の経済開発区で最も成功したのもマブチモーターです。新聞報道によりますと、その社長宅が170(約50坪)だそうで、貧富の格差が世界で一番少ない「平等日本」の証明のように思いました。「マブチモーター」のような世界的技術力を持つ企業がこの日本の経済を支えているのだと常日頃思っていますが、更に突き詰めるとそこで働く「技術者達」が日本を支えてくれているのです。
 大学受験前の高校生は「理系」と「文系」に分れます。私達の頃は私を含めあまり成績の芳しくない者は「文系」、成績の良いものは「理系」を選択したように記憶しています。大学卒業後の進路はそれぞれ違っても「平等日本」では大体同じような初任給からスタートし、大差のないサラリーマン生活を送っているのが大半のように思います。しかし「理系」を選択した学生の一部が「優秀な技術者」となり、世界の最先端のテクノロジーを競っているのだと思います。多分、日本全体で5000〜10000人くらいの「世界的技術者」がこの日本を支えてくれているのだと思います。発光ダイオードの分野でノーベル賞レベルの発明をした中村氏は所属していた企業を辞め、今は米国のUCLA教授に転職されたようですが、驚くのは世界的発明をした後の彼の年収が1000万円だったことです。「平等日本」では「皆が同じである」ことが社会の大きな基準になっています。停滞する日本に活力を入れる方法として、世界的技術者に高額年収を保証すべきだと思います。例えば5000万円〜10000万円位支払うべきだと思います。もし、ある大企業が自社の世界水準の技術者10名に5000万円の年収を保証したなら、大きな話題になるだけでなく、将来の「世界的技術者の卵」が大挙集まることは確実です。私を含め「アホな文系」の初任給は15万円、「優秀な理系」の初任給は30万円でもいいと思います。あまりに「悪平等」が過ぎた為に社会全体の活力が薄れてしまったように思います。今年一部の企業が公表した役員報酬の総額を役員数で割ると大半の企業が2000〜3000万円だったのに確かソニーだけは8000万円以上でダントツでした。今後ソニーに優秀な学生が集中すること間違いなしです。ソニーを見習って今こそ独自性を出すべきだと思います。技術者に高額年収が保証されれば今まで以上に優秀な学生は理系を選択するようになると思います。東京大田区や東大阪市に代表される一流職人をも含む「優秀な技術者」を大切にすることが日本を救う道だと信じます。 
(文責 井上 豊夫)
日付:2002.8.13 題名:「8.6 広島、8.9 長崎、9.11 NY」
(1) 「中国綿糸相場急騰 !」
7月中旬より上昇気配だった中国の綿糸相場は8月に入り更に急騰しております。値上がり前、約13000元/トンだったのが現在16000元/トンまで上昇し,更に上昇気配です。今年の綿花の生産量が十分だったか否かについては今の所不明ですが、丁度新綿花が出まわる9月までの端境期にあり、現物綿花にショート感が強く、急騰の原因となった模様です。今後タオル価格に御注意下さい。

(2) 「8.6 広島、8.9 長崎、9.11 NY」
今年も広島,長崎に57回目の夏が訪れ、原爆慰霊祭が挙行されました。
来月、9.11にはニューヨークで1回目の同時多発テロ犠牲者の慰霊祭が行われるはずです。いずれも犠牲者及びその家族、友人にとっては辛い思い出がよみがえる一日であり、ご冥福を御祈り申し上げます。
広島,長崎の犠牲者は35万人を超え、ニューヨークの犠牲者の100倍以上になります。そして明らかなのは広島、長崎に原爆を落としたのは米国で、ニューヨークのワールドトレードセンターに旅客機で突っ込んだのはイスラム過激派のアルカイダのメンバーだったと言う事です。
考えてみるとニューヨークの100倍もの犠牲者を出した広島,長崎では「戦争だったから」で済まされ「繰返しません この過ちは」と慰霊碑に刻んでまるで原爆が落とされたのはまるで「日本の責任」であり「米国の責任」ではないと言わんばかりです。私は1949年(昭和24年)の生まれですが子供の頃、保守主義者で体制派だった父親からは「日本は戦争に負けて良かったのだ。」と聞かされて育ちました。けれども今は原爆投下については「米国の責任」を追及するオサマビンラディン氏の考え方を支持したく思います。もし「あれは戦争だったから」で済ませられるならニューヨークの件もブッシュ大統領が言うように戦争だとすれば「あれは戦争だったから」で済ませるのが論理的一貫と言えるのではありませんか?
米国にのみ報復の権利が認められ、米国での犠牲者以上のアフガニスタン人を殺し、日本には「繰返しません この過ちは」と言う権利しか認められないのでしょうか? アメリカ人の死のみが尊く、日本人やアフガニスタン人の死は軽んじられて良いものなのでしょうか? 9.11の同時多発的テロの犠牲者を悼むのを否定はしませんが「米国だけが世界の犠牲者」と考えるのは「思いあがり」だと思います。恩讐からは何も生まれません。恩讐を乗り越え、広島,長崎、アフガニスタン、その他のあらゆる戦闘で命を失った人々をニューヨークで犠牲になった人々と同じように悼む所からスタートしなければならないと強く感じています。
(文責 井上 豊夫)
日付:2002.8.23 題名:官と民のあるべき姿 その1
先日、経済産業省から電話があり「貴社が輸入しているタオルの最近の実績を月毎に商品分類別に報告せよ」との依頼がありました。昨年、新聞にも載った「輸入タオルのセーフガード問題」に関して全国の輸入会社を対象とした資料提出の要求には協力し、過去3年に遡り調査し、資料作成に2名の女子社員が10日間くらい時間を割きました。勿論なんの報酬もなく「タダ働きの勤労奉仕」でした。今回の依頼は経済産業省の担当が言うには「大手輸入会社」のみを対象にしたもので全社が対象ではありませんでした。役人達は自分に必要な、又は好都合な資料を民間に依頼して「無償」で提出させる事を「当たり前」だと思っているようです。私は次のように答えました。
「私が市役所に行き、住民票を依頼した時、手数料として300円を支払うのは『当たり前』だと思っています。市役所の役人の手を煩わせるのですから当たり前です。では逆に官が民に依頼する時は何故いつも『無償』なのですか?その資料を作成するのに必要と思われる時間と労力に対しての報酬を支払って当然ではありませんか?国会に参考人として呼ばれた場合、交通費以外に日当が出ると聞いた事があります。日当が支払われて当然だと思いますが、事務所内で10日間2人が資料を作った時、何故日当が出ないのでしょう?
タオル輸入の趨勢を把握したいなら毎月の輸入通間統計を見ればわかるはずで大手のみの資料集めは上司やタオル産地出身の政治家達に仕事をしている『ふり』をする為のものと思われます。『無償』の資料提出には応じられません。」
先方は「そうですか,判りました。」と電話は切れました。
私どもの会社は「官からの依頼」は決して多くありませんが銀行などは日銀、金融庁への「無償資料提出」に日々追われているようです。私が銀行にこの話をして「請求すればいいのに」と言うと銀行員は苦笑するだけです。けれど資料提出の為に人員を減らせず、発生する経費の付けは全て銀行の取引先である民間人及び民間企業に回されているのです。役所が民間に資料を要求するな!とは言いません。必要なものならいくらでも要求してもよいのですが、全て「有償」にすべきだと思います。官が偉いわけでも民間が偉いわけでもない、双方が対等の社会を作らなくてはいけないと思います。
また、2002年8月17日付け日本経済新聞は「経済産業省の内部調査で国内出張の許可に8段階、出張後の報告と清算に14段階の上司等の決裁を必要とし、出張清算だけで年間5800時間を要していることが判明。民間の商社では出張清算の決裁は2〜3段階であり、官民格差は簡単に解消しない。」と伝えています。 余りにも多い官自身の無駄、その官から民間が押し付けられている「無償勤労奉仕」,このあたりにメスをいれるべきだと思います。
(文責 井上 豊夫)
日付:2002.8.30 題名:官と民のあるべき姿 その2
官が使う税金は全て民の負担となっている事は国が違っても同じです。日本の場合、人の権利は「平等」に保障されていますが税金の負担は極めて「不平等」です。消費税以外の税金を全く負担していない人も松井秀喜選手のように税金を数億円負担している人も権利の面では全く「平等」です。日本の累進課税は若干是正されたとは言え、世界でも例のないくらい極端で「金持ちから取るのは当然」と言う認識がまかり通っています。相続税についても過酷なもので最近の例では正田家の本宅が相続税支払いの為に物納されました。これらは全て
「所得の再配分」と言う社会主義的概念に基づくもので、これらの社会主義的税制度が全て戦前にできていたことに驚かされます。
「不平等」とは言え、現在の負担方法を根本から変えることは大変難しい問題です。税負担の変更には消費税が導入された時の例を見なくとも「必ず強い反対意見」が出て世の中が混乱します。その混乱を避けつつ,税金を「嫌々支払う」のでなく「喜びを持って支払う」ようにするには如何すれば良いでしょうか?「不平等」だからと言って「税金をごまかす」のではなく「支払う事にある種の誇りと喜び」を持てることが大切だと思います。言うまでもなく「納税は国民の義務」ですが「何とか免れた」と言う「卑しい考え」が世の中に蔓延っています。このような「卑しい考え」を駆逐する為に次の提案をしたいと思います。
個人であれ、法人であれ、納税した金額を累積し、ある一定金額に到達したら「一年間減税、又は非課税」等の特典を与える。法人の場合は納税額1000万円に付き「星シール1個」を支給し、玄関先に貼ることを認め、貼られたシールが「対外的信用の証明」となり、「納税することが励み」に変わるようにします。新規の得意先を訪問しても玄関の「星の数」で容易に「信用度」が把握出来ます。個人の場合、松井選手のように若くして「多額の納税」をした人が将来、不幸にも経済的不遇に遭った時には「過去の納税金額の累積に基づき、特別年金が支給される」ようにします。法人の場合も同じく、将来資金繰りに支障が生じた時には「過去の納税金額の累積に基づき、特別融資をうけられる」ようにします。このようにすれば「取られ損」の意識は薄れ、「納税」によって「国民の義務」を一定以上に果たす事に「誇りと喜び」さえ感じることが出来ると思います。正しく納税する人が尊敬され、玄関先に星が並ぶ企業が更に発展できる世の中の方が良いと思いませんか?納税する事は「国家に対する貢献であると同時に国民への貢献」だと思います。たくさん貢献した個人及び法人が「貢献した事を将来後悔する事のない世の中」にしようではありませんか?
(文責 井上 豊夫)
日付:2002.9.6 題名:夏の終わり
8月も終わりに近づき、9月の声を聞く頃ともなると高校時代の夏休みの宿題を思い出す事があります。確か一年生の時は「徒然草」,二年生の時は「百人一首」だったと思います。9月1日に学校が始まってもまだ「徒然草」を読み終わっておらず焦った事を昨日のように思い出されます。「詰め込み教育の弊害」を叫ぶ人は多いようですが「若い時期に多少無理やり詰め込むこと」はよい事だと私は思います。特に私のような怠け者にとっては有難い事で、今でも例えば「瀬を早み岩に瀬かるる滝川の割れても末に逢わんとぞ思ふ」などと聞くと「滝川の」の「の」は「のように」と訳すと良いと書いてあったことを思い出します。強制されて読まされたわけでもないのに今でも心に残っているのが鴨長明の「方丈記」です。飢饉、地震、大火などで多くの人が亡くなり、特に「養和の飢饉」と言われた飢饉では京都の左京地区だけで路傍に42,300体以上の死体が転がりそれを「一つ、二つ、- - - - 」と数えるしかなかった状況の中で、鴨長明が感じた事はそのまま現代に生きています。ご存知と思いますが冒頭部分のみを再録します。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかも元の水のあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。」
「方丈記」が書かれたのは今から790年前ですが、世の中は変わったように見えて実は何も変わっていないのだと思います。「かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」なのです。8月28日午前2時半頃、弊社の松島久美さんが永眠し、同日7時19分に弊社折池光徳君の所に第二子となる男児が誕生しました。幸いにして道端に死体が並ぶ時代ではありませんが、人の行き様は「方丈記」の世界を一歩たりとも出る事はないのだと思いました。
 今回、松島久美さんのことがあったので「方丈記」を再読する機会を得る事が出来ました。そのおかげで「方丈記」の「方丈」とは一丈(3メートル強)四方のことで四畳半にあたり、「実に狭い」と言う事を知りました。初夏の頃から建設中だった拙宅の離れも漸く出来あがりつつありますが、決め兼ねていた拙庵の名前を「方丈庵」にすることにしました。松島久美さんの夭折が「方丈記」を思い出させてくれ、その「方丈記」が拙庵の名前を決めさせてくれた忘れ難い「夏の終わり」でした。
(文責 井上 豊夫)
日付:2002.9.13 題名:中国の日本人
小泉首相が北朝鮮を訪問されるようですがテレビを通して見る北朝鮮の雰囲気は1970年代の中国を思い浮かべれば「当らずともとうからず」だと思っています。1976年秋に初めて中国を訪問した頃は丁度「文化大革命」末期で、9月9日に毛沢東主席が亡くなり、江青女史等「四人組」が逮捕され、盛んに「打倒四人組」のデモ行進が行あり、逆さまに書かれた四人組の名前の上にバツ印が付けられていました。ホテルの部屋にはテレビもラジオもエアコンもなく、中国産のビールか汽水(チィーソエ)と呼ばれた炭酸入りのオレンジ色の飲料水だけで一切の外国製品はありませんでした。でも今振り返ると多分果汁ゼロパーセントのチィーソエ(汽水)が妙に懐かしく、汗だくでホテル広州賓館に戻り半分壊れた扇風機にあたりながら飲んだチィーソエが忘れられません。
当時の商談はある意味では「卑屈」とも思えるような態度で中国側に気を使い、輸入する場合であっても「商品を分けて頂く」と言う風で、決して「買ってやる」ような商談は考えられませんでした。毛沢東語録を強制的に読まされ時代も「文化大革命」も終わる頃に中国を訪れた者には「卑屈」とも思える商談風景には馴染めないものを感じていました。
 それから26年の歳月が流れ、今や中国は「世界の工場」となりつつあり、労働集約的産業の多くはその生産基盤を中国に移しています。最近中国へ頻繁に行くようになった人、又は現地に駐在している人を見ていると以前1970年代に中国で見られた「卑屈な日本人」ではなく、白人の前では小さくなっているくせにアジア人の前では「偉そうに振舞う日本人」の方が多くなっているように思います。このような日本人を見るのもあまり愉快には思えません。よその国に来ている以上多少の遠慮と心遣いがあって当然と思います。勿論、日本人としての誇りを忘れてはいけないと思いますが「偉そうに振舞う日本人」は以前の「卑屈な日本人」と同じく、あまり見よいものではないと思います。私は1970年代の中国の雰囲気を体験できた御蔭で何とか26年間中国と付き合って来られたのだと思います。「卑屈」と感じたあの時代が教えてくれたものが体に染み付いているように感じる事があります。外国製品が何にもなかった時代のチィーソエ(汽水)が忘れられないように、今から考えると「あの変な時代」の方がたくさんの事を教えてくれたように思います。高齢者が自分たちが受けた戦前の教育を評価する気持ちに似ているようにも思います。戦後生まれの私にとって「文化大革命」も終わる頃の中国での体験を「有難い」ものと思っています。
(文責 井上 豊夫)
日付:2002.9.20 題名:美しい顔
北朝鮮に拉致された同胞が長年無視され、放置され8名もの死者が公表され、日本中から「怒り」が沸き起こっています。全く身勝手な理由で何のかかわりのない人々を誘拐、拉致した「北朝鮮」も酷い国ですが、判っていながら、救出しようとしなかった「日本政府」「日本国民」の責任も許されないものがあると思います。「国民の生命と安全」を守るのが「国家」の最大、且つ最低の責務です。それが果せないないなら「国家」と呼ぶに値しないと思います。今回、小泉首相の訪朝にて今まで拉致の存在すら認めて来なかった北朝鮮が11名の拉致認定者の安否紹介に対し認定者以外の3名を含め、14名分の状況を明らかにしましたが日本国政府の努力の結果とは言い難く、悲しい事に「ブッシュ米大統領の強硬姿勢の御蔭」と言わざるを得ません。
事故隠しが問題になっている東京電力の歴代社長4名が責任を取ったように、この拉致問題が発生して以来の「歴代首相」全てが議員辞職すべきだと考えます。政治家のみならず同胞の「誘拐、拉致」を「他人事」としてきた「日本国民」も深く反省しなければ行けないと思います。社会主義国の悪口は言わない主義の「日本のマスコミ」に対しては懺悔しても許せないものを感じます。
腹立たしい気持ちで「拉致被害者家族会」のインタビューを聞いていると、死亡と伝えられた横田めぐみさんの父親は「生存が判った方は遠慮なく心から喜べば良い。」と気遣い、一方、生存と知らされた家族の方は「今まで11名の被害者家族は一つの家族として運動して来ました。だから自分の子供が生存していたと聞かされても亡くなった方の方が多いので少しも嬉しくありません。」と言われました。決して喜びを無理に噛み殺して言っているように感じませんでした。他人の家族の死も自分の家族の死と同じように受け止められている光景を見て羨ましく、「不思議な感動」に駆られ、60歳台と思われるその人の顔が「美しく」感じられました。人が自分の出来事と他人の出来事を同じように悲しめる稀有な光景を初めて見たように思いました。市民運動には必ずと言って良いほど「特定の政治勢力」の影があるので、市民運動には近づきたくないと常日頃思っていましたが、この「拉致被害者家族会」だけはそんな影もなく、同じ被害に逢った者同士が一つの大きな「家族」となったようで、それぞれに他人の痛みを自分のものとできる「美しい顔」を持っておられると感じました。
(文責 井上 豊夫)
日付:2002.9.27 題名:サルでも解る経済学講座No.1
世の中には○○総合研究所なるものがたくさんあります。大手都市銀行、証券会社でいわゆる「総研」のないところはないくらいです。そこに勤務している人々は経済の専門家を自認し、景気の動向や為替の先行きなどを仕事としておりますが、失礼ながら「ほとんど当った試しがありません。」
毎日、外国語で書かれた経済書を読んだり、最新のデータを分析し、アナリストと称して人々を惑わしているのです。最も解り易い例を挙げれば1989年がピークだったいわゆる「バブル経済」が破綻する前にこれを「予言」できた「総研」は皆無でした。「バブルの後遺症」が今でも日本経済の低迷の主原因となっているわけですが、バブルの崩壊すら予言出来なかった彼等が出す「経済予測」を信じる気持ちにはなれません。銀行、証券会社から来る予測書類は「読まずに捨てる」ことにしています。経済学を専攻していなくてもバブル期に高騰した「坪5000万円や1億円」の土地を買ってどんな商売をしても「採算」がとれないことは「中学生」でも解ります。
バブル崩壊前に某都市銀行の支店長に言ったことがあります。「『ある商品』が日本で高騰すれば海外から安い商品が輸入され価格は安定します。もし『土地』がコンテナーに入るものなら当然輸入され価格は安定するはずですが、輸入できないばかりに『所有者』、『買い手』、『融資する銀行』の全てが『皆で渡れば怖くない』心理で莫迦げた価格を信じており、将来必ず『バブルの崩壊』を招くに違いない。その時一番困るのは『銀行』です。銀行の使命は不動産の担保が有るか否かで『融資』を判断するのではなく、融資希望先の業務、決算書及び経営者をよく見て『無担保』でも融資するかどうかを判断できるのが本当の『バンカー(銀行家)』であり、担保しか見ないのは『街の金融屋』と変わらない。」
 私の予想通りバブルが崩壊し、銀行が大量の不良債権に苦しんでいる現在、銀行の支店長には「自業自得で罰っちゃです。(方言で天罰下るの意味)」と言っています。こんな簡単なバブルの崩壊の図式すら予測出来なかった「学校だけの秀才達」が何を言おうと「信じられないのは当たり前」です。「総研」に勤務する社員(行員)達は何の役にも立たない「予測」をして高給を取っている「穀潰し」です。リストラするなら先ず、彼等から始めるべきだと思っています。経済などと言うものは難しく考える必要はなく、中学生程度の知識と常識があれば理解できるものだと思います。経済評論家や各種アナリスト達の言葉に振り回されるのではなく、「自分で考える習慣」を身に付けなくてはいけないと考えます。
(文責 井上 豊夫)
日付:2002.10.4 題名:サルでも解る経済学講座No.2
(1)決算御礼
御陰様で9月30日を以ちまして、弊社第20期決算を無事過ごすことが出来ました。心より厚く御礼申し上げます。速報によりますと売上高は約2%増加にとどまりましたが税引き前利益は大幅増益となり、過去最高となった模様です。
重ねて感謝申し上げます。感謝の気持ちとして例年行なって参りました売上高上位会社のみに対する正規リベートを中止し、代りに幅広く還元させて戴く為に、9月1日より価格の全面引き下げを実施させてもらいました。何卒御了承下さいますと共に、更に弊社をご利用下さいますようにお願いします。
                      重光商事株式会社 取締役社長 井上 豊夫


(2)「サルでも解る経済学講座」No.2
経済活動のグローバル化が進むと国際取引が避けられなくなり、異なる通貨間の為替相場が重要になります。市場で国際通貨と言えば先ず「US$」「UKポンド」「日本円」あたりですが、最近無視できない通貨に「人民元(RMB)」があります。26年前、1976年に私がはじめて中国に行った頃、1US$=1.4RMB 1RMB=150日本円くらいの水準でした。当時中国の経済的潜在能力に脅威を感じる人は皆無で、中国の百貨店には「只でも要らない」ような商品しか並んでいませんでした。確か1984年に中国は輸出振興、輸入抑制の為1US$=2.8RMBと一挙に100%「人民元を切り下げ」ましたが、中国経済に注目する人は居らず、他国からの批判もありませんでした。その後も人民元の切り下げが続き、1US$=3.5RMB,US$=4.5RMBと段階的に切り下げ、私の記憶なので100%時期は正確ではありませんが1994年頃には1US$=8.3RMBまで切り下がりました。これはあくまで公定レートであり、闇レートは1ドル=9元を超えていました。1994年日本円が最高値を付けた時(1US$=79円),1人民元=10円を瞬間的に割り込んだことがあります。1976年の水準に比較すると対日本円で15分の1, 対米ドルで6分の1に切り下げたことになります。
簡単に言えば1976年には1ドル輸出したら1.4元にしかならなかったのに1990年代には1ドル輸出したら8.3元の収入になったわけです。1980〜1990年台に急激に増加した外国資本と共に流れこんだ技術ノウハウは中国製品の品質向上につながり、メイドインチャイナ製品は世界に溢れ、競争相手であったアジア諸国の製品を駆逐し、1997年に突如発生した「アジアの経済危機」を招いたと私は見ています。経済の専門家は誰も中国の自国通貨の身勝手な切り下げを批判しませんが、公正な国際競争をするには今後人民元の大幅切り上げを強く要求すべきと思います。
(文責 井上 豊夫)
日付:2002.10.11 題名:サルでも解る経済学講座No.3
1976年当時の中国は「貧乏だけど皆一緒の時代」でした。大学卒でも月給は40人民元「40 x 150円(当時のレート)=6000円」程度でした。
現在は「金持ちと貧乏人の差が極端な時代」です。地方では月給200人民元「200 x 15円(現在のレート) = 3000円」程度で人民元の切り下げのせいで日本円換算では逆に安くなっているケースもあるのです。一方、都市のホワイトカラーは2000〜3000人民元(30000円〜45000円)程度で、中には10000人民元(150000円)くらいのケースもありますが安価な輸出用製品を支えているのは1000人民元(15000円)以下の工場労働者です。中国製品の安値攻勢に悲鳴を上げている日本企業の中には「中国の人件費の高騰」を期待する傾向がありますが、台湾、韓国で見られた「人件費の高騰」は中国では起きないと思います。
その理由は台湾2000万人、韓国4000万人の人口故に起きた現象であり、地方に200元(3000円)以下の予備的労働力を豊富に有する中国の場合、決して「労働力の急騰」は起き得ないと断言できます。中国のコスト上昇による競争力の低下を待つのは全く無意味だと思います。
 中国製品,特に軽工業製品の価格はその輸入で利潤を得ている我々の立場から見ても安過ぎ,とても競争になりません。日本のような人件費の高い先進国のみならず、アジアや中南米の発展途上国ですら競争に勝てず、1997年の「アジア経済危機」や今年の「アルゼンチンの経済破綻」等を引き起こした原因も「中国の一方的自国通貨切り下げ」による輸出攻勢でした。例えば日本だって1US$=200円とか1US$=360円に切り下げれば輸出競争力が回復するのは自明の事です。だからと言って各国が自国の利益の為に切り下げ競争を始めると収集がつかなくなるので、1985年9月「プラザ合意」により1US$=240円だった日本円は200円を突破し1994年には79円台まで上昇し続け、現在は123円前後で推移しているわけです。少なくとも1985年以降,日本円は世界のあらゆる通貨に対して切り上がっており、日本の輸出メーカーはその逆風の中で必死にコストダウンの努力をして輸出を維持してきたわけです。その努力には頭が下がる思いです。1ドル=80〜90円だった為替相場が100円を超え1998年に145円前後まで円安に戻した時、この為替では「輸入はもうできない」との悲観論が支配的になりましたが私は過去の円高局面を思い起こし「240円から79円まで円高が進んだ時の輸出企業の努力に較べれば145円まで多少円安に振り戻したからと言って輸入はもうダメと悲観するのはおかしい。他社がやる気をなくしている今こそチャンスである。」と思い、他社との成約が進まないベトナムの工場との取引を急増させる事に成功し、当時20億円だった売上は1999年には25億まで25%伸びたのでした。(文責 井上 豊夫)
日付:2002.10.20 題名:中国の本当の凄さと怖さ
第92回広州交易会に参加しました。年2回開催の広州交易会は日中国交回復以前からの長い歴史を持ち、今でも中国最大の総合貿易商談会です。諸外国に門戸を閉ざしていた時代には例外的に外国との通商が許された江戸鎖国時代の「出島」のような存在で春秋それぞれ一ヶ月開催されていましたが、今ではアイテム別に前後半6日間計12日間となっています。この広州交易会には27歳の時から毎年参加し、今回で51回目の参加となりました。数が多ければ良いと言うものではありませんが今でもこの交易会を「原点」だと考えており、同業者の多くが参加しなくなった今でも欠かさず参加し「笑らわば笑え」と開き直っています。名称は同じでも内容の変化は著しく、以前正面玄関の壁にあった「マルクス」「エンゲルス」「スターリン」「毛沢東」の四人の肖像画は既に取り外され、メインロビーの左右を飾っていた「紡織品(テキスタイル)」に代り、海爾(haier)や美的(Midea)などの「家電製品」が展示されるようになり、家電ブースでは華やかにコンパニオンレディーたちが微笑みかけます。テキスタイルや食品のブースが閑散としているのに対し、家電や工作機械のブースは、10月25日から始まる軽工業品に負けないくらいの盛況振りでした。軽工業品の多くは先進国の開発商品を模造コピーし、開発に要する費用と時間をコストに含めず、廉価な労働力と自国通貨の身勝手な切り下げにより他国の市場を混乱させています。「労働力の不当な搾取をなくする」という社会主義の「理想」を捨て去り「廉価な労働力」を売り物にせざるを得ないのが何とも皮肉ですが、これが現中国政府のいう「特色ある社会主義」なのでしょうか?
 模造軽工業品はさておき、私が注目するのは「自動車」「家電」「工作機械」などの目覚しい「進歩」です。プジョー撤退後、広州に進出した「広州ホンダ」の日本人責任者は中国の部品下請け工場の「レベルの高さ」と「研究熱心さ」を高く評価し、後部トランクの水の浸入を防ぐゴムの成型を中国の部品工場は何度もコンピューター上でシュミレーションし、日本では一回目は失敗したのに一回で成功したと言っていました。中国にも「アホな文系」だけでなく「研究熱心な理系」が台頭してきているのです。以前北京の新華書店で専門書を真剣に立ち読みしながらメモしている姿に感動したことがありますが、これからは高いレベルでの先進国との競争になりそうです。
 最後に今回の出張で感心した事があります。13:55発の青島---上海便が遅れて16:20頃の出発になりそうだとのアナウンスが出発の一時間前にあり、実際連絡通りに遅れて出発しました。日本では当たり前の事ですが今までの中国では「乗客への事前案内」はあり得ない事でした。こんな些細な事ですが私には「ゾクッとする」くらい中国の『凄さ』と『怖さ』を感じたのでした。
(井上 豊夫)
日付:2002.10.25 題名:敢えて北朝鮮を擁護する
若い頃から親米派だったし、今も変わらず親米派だと自認しています。ベトナム戦争の頃には若者の多くが「ベ平連運動」に参加する中で、私はアメリカが主張していた「ドミノ理論」も理解したし、「ベ平連」にも参加しませんでした。ベトナムの背後に「ソ連や中国」が見えても本国から遠く離れたベトナムで多くのアメリカの若者が命を落としましたが、ベトナム戦争が民族自決運動であった事に戦争が終ってからようやく気付くほど、「お節介でお人好し」でした。
ところが東西冷戦構造が崩れ,アメリカが軍事的に世界を支配するようになると、アメリカは相手が弱ければ軍事力を行使し、相手が強かったり,背後に「ロシアや中国」が見えると「見て見ぬふり」をするように変貌しました。湾岸戦争でのイラク,テロ報復のアフガニスタンは相手が弱かった場合の例、チェチェン紛争、チベット問題は「見て見ぬふり」の例だと思います。これでは強大な軍事力を有する単なる「臆病者」に成り下がったように思います。アメリカ兵が死なない事が何より優先します。アフガニスタンでも「ならず者集団:北部同盟」に危険なことは全てやらせ,一年間でアメリカ兵は41名だけの戦死者で、逆にアメリカでのテロの死者以上のアフガニスタン民間人を殺害したのでした。筋金入りの親米派だからこそアメリカの変貌振りには許せないものを感じています。
 先日ハノイに行った折、ベトナム人女子社員の実家を訪問する機会があり、彼女の家で両親,6人の同級生と食事をしました。両親はベトナム語だけなので通訳を介して父親がヒロシマは何処ですか?ナガサキは何処ですか?と聞くのでした。知合いでもいるのかと思ったのですが本当の理由は「原爆の被害に遭った所」だったからでした。数年前に印度のニューデリーでタクシーに乗り、私が日本人と判ると運転手は「ヒロシマは今どうか?ナガサキは今どうか?アメリカは悪い国だ。」と盛んに怒っていました。
ヒロシマ、ナガサキは日本人よりほかの国々で強く正しく記憶されており、アメリカが加害者で日本が被害者と認識されています。核兵器がそんなに危険なものなら、アメリカが持とうが、北朝鮮が持とうが危険である事に変わりはありません。アメリカ、ロシア、中国、英国、フランスが持つ核兵器は「危険ではなく」、北朝鮮、イラク、印度、パキスタンが持つ核兵器は「危険だ」と何故言えるのでしょうか? 拉致問題では北朝鮮に一歩も譲歩するべきではありませんが、核開発問題では北朝鮮の立場にも理解を示し、「アメリカなど核保有国に核廃絶を約束させた上で、北朝鮮に核開発を断念させる」のが正しい判断だと思います。このように日本が主張すれば「アメリカの植民地」ではなく、世界から一目置かれる存在になれると信じます。
(文責 井上 豊夫)
日付:2002.11.1 題名:前科二犯・サルでも解る経済学講座No.4
(1)前科二犯
先週号で「敢えて北朝鮮を擁護する」を書かせて戴きましたが読者 吉川義一君より貴重な御意見を戴きました。

「核兵器大量殺人 前科二犯の米国が核を保有することは常識的に見て、その他の国が保有することに比して一番危険なことであると思う。前科者を甘やかしてはいけないのだ。(中略)
吉川の提案 : 核保有国が核を廃絶する事を条件に金正日、フセイン、オサマビンラディンの三名がテロ組織を解散し、投降処刑される。
核根絶の功労者としてこの三名にノーベル平和賞を授与する。」

処刑されてから如何してノーベル平和賞を受け取るのか?などとくだらないあら捜しをしないで「素直にごもっとも」と思いました。


(2)サルでも解る経済学講座No.4
「デフレの克服」が当面最大の経済問題だそうでが、小泉首相も竹中経済相もデフレの原因を本当に理解されているのか心配しています。
 東西冷戦時代には市場経済と呼ばれる資本主義の世界は米国、欧州、日本など人口で言えば約7億人で構成されていました。ところが1991年に2億人を抱えるソビエトが崩壊し「新ロシア」が誕生し、市場経済に仲間入りし、一方人口13億人を抱える中国は社会体制は社会主義を守りながら、経済のみ市場経済の仲間入りを果しました。合計約15億人が新たに仲間入りしたので7億人だった市場経済村の人口は一挙に22億人になったのです。しかも新しい住民達は先住民の10分の1から20分の1の低賃金だったので新住民の作った商品は当然「安く」、22億人の市場経済村全体に大量に流通し始めました。
 これが「デフレの原因」です。こんな簡単な当り前の事がほとんど理解されていません。多分小泉さんも竹中さんもそうだと思います。ですから「デフレを克服」するのは容易な事ではありません。市場経済村の人口は3倍強になり尚且つ平均賃金は7億人の時代を100とすると38程度と3分の1となったのです。(7億人x 100 + 15億人x 10) ÷ 22億人 = 38.6 (新加入人口の賃金を先住民の10分の1として計算した。仮に20分の1とすると35.2となる。)
日本人を含む先住民達は「新世界」に入ってしまった事を早く自覚しなければ行けません。「バブルの崩壊」は単に日本という局地的規模で発生した事件でしたがこの「新世界の誕生」はグローバルな規模で発生した大事件なのに10月30日に政府が発表した「デフレ対策」は全くこれを理解できていないようです。では如何すればよいのか?は次回説明致します。
(文責 井上 豊夫)
日付:2002.11.8 題名:サルでも解る経済学講座No.5
賃金の安い新住民達が作った低価格の商品は既に日本国内に溢れています。信じない方はディスカウントショップへ行って見てください。デフレーションを実感できるはずです。日本では「公的」な物価は下がることなく現在でも上昇し続けているので(例: 高速料金、タバコ) 「公的」なものを除くとデフレはもっと顕著に感じられるはずです。先週も申した通り、「新世界」が始まったのですから根本的に考えを「変える」必要があります。
では何故「デフレ克服」をしなければいけないのかと言えば「物価が下がり続けると企業収益が上がらず、不良債権が更に増加し悪循環に陥る。」と言う事だと思います。低価格商品の流入が防ぎきれないとすれば「日本人の賃金を半額にする」しかないと思います。そうすれば競争力を回復させることが出来、企業業績は向上し、不良債権の増加は防ぐことができますが、負の要因としては賃金低下により消費が落ち込みます。私は日本人全体が今より貧しくなることを余り深刻に考える必要はないと思います。今の日本に最も足りないものは「貧乏」だと思うからです。今より貧しいけれどスリムな健康体の日本になれると思います。
 賃金を半額にする事には強い抵抗が予想されるので「実現困難」とおっしゃるなら別の方法があります。円を切り下げ、為替レートを一気に1ドル=240円程度にします。実質、賃金を半額にするのと同じ効果がありますが表面上の金額が変わらないので「賃金を半額」にする方法に較べて抵抗が少ないのが利点です。輸入品は確実に高くなり、日本の輸出競争力の回復につながります。
 「デフレ克服」以上に大切なのは経済に関するあらゆる「官の規制、許認可」を一旦全て撤廃する事だと思います。良かれと思って経済政策や対策を立てる事が経済をだめにしているのです。「経済」に関しては基本的には「放任」とし、上述の「大手術」以降、介入するのは「寡占や独占」だけに限定する。国家が責任を持つのは「国内の治安の維持」、「国の防衛」「外交」だけとし、法務省、防衛庁、外務省以外の省庁を全廃する。本当に「小さな政府」を作り、大幅な減税を実施し、需要を喚起するのが最も健全な経済だと思います。例え景気が悪くとも政府に「何とかして欲しい」などと泣きつくような卑しい事は言わないようにし、その代わり「一切の規制,許認可を拒否」する毅然とした態度が必要です。有無を言わさぬ強制的な社会保障ではなく、民間保険会社による自己責任型で選択可能な社会保障に切り換える事も「小さな政府」を作る上で忘れては行けないと思います。突然、高層ビルに飛行機が突っ込んできたり、海岸を歩いていたら拉致されるのは「政府の責任」ですが「景気の良し悪し」は「政府の責任」ではないようにする事から始めましょう。
(文責 井上 豊夫)
日付:2002.11.16 題名:サルでも解る経済学講座No.6
この不況下でもトヨタ自動車の年間経常利益が1兆円を超えた(11135億円)そうです。このニュースを聞いて「トヨタの野郎、たくさん儲けやがって許せない。もっと車安くしろ!」としか思えない人の将来に明るいものはないと思います。
「トヨタは数千億円の税金を国家や地方自治体に払っているのに思い道理に国を動かす事も出来ず、余り税金をたくさん払ってない企業と同じ扱いで可哀想だ。」と思える人には明るい未来が拓けると思います。
 先週号でも申した通り「国家の治安の維持」、「国の防衛」、「外交」だけに責任を持つ「小さな政府」を作り、「景気の良し悪し」は政府の責任ではなくするべきです。景気の良かったバブル期に国民は「幸せ!」と言っていましたか?
誰一人面と向かって「幸せ!日本人で良かった!」とは言わず「土地が上がったので固定資産税が高くなって許せない!」と言ってたではないですか?景気が良くなっても人は必ずしも幸せになれるわけではないのです。不景気が続き「悪くなった事」より「良くなった事」の方が多いように私は思います。少し例を挙げると
(1)平日でも理由をつけてゴルフ場に行っていた経営者がちゃんと仕事をするようになった。
(2)簡単に転職できると考えていたサラリーマンが真面目に働き出した。
(3)勉強もせずたくさん内定がもらえた時代より、少しは真剣に努力して就職先を探すように学生が変わった。
(4)物価が下がり、スーパーの営業時間は延長され、土日休んでいた旅行社も営業を始め、役所以外の民間のサービスが向上した。
探せばまだまだありそうです。逆に悪くなった所ってありますか?
(1)銀行の貸し渋りが激しくなった。----- これは借りて側の自業自得だと思います。銀行はお金を貸して心配な相手に貸すわけには行きません。現実を理解できない軽薄なマスコミが安易に「貸し渋り」や「貸し剥がし」を悪事のように言うのは間違いです。健全な内容の企業は今でも「只のような金利で湯水のようにお金を借りられます。」
(2)売上が減少して儲からなくなった。----街に出ると銃弾が飛んでくるような状態では困りますが、以前に較べ落ちたとは言え「世界一の治安の良さ」を誇れる国家にいて自由に経済活動ができるのです。売上が落ちそうだったら次に何をすべきかを「自分で考えるべきです」。何もせず「世の中のせい、政府のせい」と言っている人に明るい明日は永遠に来ないと思います。売上が減少して儲からないのは「貴方自身のせい」なのです。
不景気が今後も続く事を願うばかりです。(文責 井上 豊夫)
日付:2002.11.22 題名:新世界より
 時折、中国へ行く機会がありますので「創世期」の中国と「守成期」の日本を自然と比較してしまいます。日本の諺に「創業は易し、守成は難し」と申すように「創世期」の方が何でもやり易く、例え失敗しても取り返しがつき易いので「勢い」が感じられます。
 一方、「守成期」の日本では何をやるにも「明確な目的意識を持てず」、何の為に働くのかはっきりしないまま、時間だけが過ぎて行くのだと思います。
「新世界、中国」では貧乏から這い上がる為に必要なものは全て手に入れ、利用する事に何のためらいもありません。迷うことなく高い学歴を得る為に努力し、利用できるコネクションがあれば何でも遠慮せずにフル活用し、その結果得た地位も次のステップアップの為の踏み台と考えます。即ち、子供達は「何の為に勉強するのだろう」等とつまらない事を考えずに「勉強し」、学歴を得た後にはより多くの収入を得られる仕事を選択し、更に上を目指せれば躊躇なく別の道を探し、平気で従来の会社の客であっても奪い去る、正に「仁義なき戦い」が繰り広げられています。
 弊社の中国籍(蒙古族)女子社員ゲゲンターナさんによりますと彼女が出張で中国国内便に乗り中国の新聞を読んでいると「何の断りもなく」次に読むつもりのページを隣の中国人が「勝手に持って行き」読み終わると黙って返すそうです。私も隣に美女が座った時にはきれいな写真の載った本をわざと広げます。すると美女の方から必ず「見せて」と声を掛けて来るのです。この作戦はほとんど失敗がありません。良く言えばそれだけ欲望を素直に出すのだと思います。
「新世界,中国」では何が安いと言っても「人件費」ほど安いものはないと思います。逆に日本では何よりも「人件費」が高くなっており、血液中の悪性コレステロールのように高い人件費で血管は時々詰まりそうになっています。「人件費」がコストに反映され易い業種はタクシー、理髪店、縫製業、御手伝いさん等だと思います。上海では1キロ2元(30円),東京---大阪500キロでも15000円、通常貸し切りにすれば10000円位になります。パートの御手伝いさんは上海でも時給5元〜6元(75円〜90円)です。一日3時間、週5日来てもらっても一ヶ月に300元(4500円)程度にしかならないので「共稼ぎ」のニューリッチ達は自分で「食事の用意」も「掃除」もしなくなるのです。「人件費」が安いとお金の使いがってもあるので益々真剣に金儲けに励むようになります。日本では多少小金を持っていても「人件費」がネックになってほとんど「利便さ」を買う事は不可能です。10年前に中国で航空券を買うには旅行社へ自ら出掛けて行き行列に並んだり、個人的コネクションを利用しないとだめでしたが今では一枚でも自宅に届けてくれるのが当たり前になっています。
(井上 豊夫)
日付:2002.11.29 題名:職業の貴賎について
 読売新聞社の渡辺恒雄氏は中村選手の茶髪に文句をつけただけでなく、『近鉄球団が来年からサラリーマン金融の「アコム」とスポンサー契約を結んだのは良くない。』と発言されたそうです。きっと渡辺氏のお考えでは真実を報道する新聞社の仕事は尊く、金貸しであるサラ金の仕事は卑しいと言う事なのだと思います。学校では未だに「職業に貴賎はない」などと偽善的嘘を教えているようなので、世の中にはさげすまれても仕様のない職業があると言うことを発言された渡辺氏にある意味で賛同するのですが、私の価値基準では「新聞社」と「サラ金」であればより卑しいのは「新聞社」方になります。何ら物を生産もしない点ではどちらも同じですが、日々他人のプライバシーを暴くことで利益を得ているのは「新聞社」の方です。「個人情報の保護」が盛んに叫ばれるようになっていますが本当に個人情報を尊重するのであれば新聞、テレビ等の報道のほとんどを止めるべきだと思います。人権を尊重している振りをして顔にモザイクをかける前に自分たちの仕事の卑しさを再認識すべきだと思います。自分達の身の危険を顧みず、強いものに立ち向かうようなマスコミは皆無で、批判しても身に危険が及ばない相手だけを選んで「叩く」のです。新聞やテレビが「暴力団と全面対決した」なんて話は聞いた事がありません。今漸く取り上げられている北朝鮮の拉致問題でも20数年間拉致家族の主張を報道しようともせず無視し続けて来たのです。北朝鮮や中国等の社会主義国への批判には極めて消極的で「真実を伝えようとはしません。」北朝鮮が拉致を認めて他のマスコミが批判し出すと安心して今度は「北朝鮮批判一色」に染まってしまいます。新聞やテレビなどと言うものは判りやすく言えば「ゴロツキ」みたいものと思えば良いのです。自分は庶民の味方で正義の使者のように振舞うテレビキャスターは政治家に金銭に関して高い倫理性を要求するのであればその前にキャスター自身がテレビ出演一回に付きどれだけ収入を得ているかを公表すべきだと思います。多分誰も彼等が庶民の味方だとは思わなくなると思います。自分達が正義の味方でもなく、個人情報を暴く事で利益を得ている卑しい存在なのだと自覚して報道するならマスコミの存在意義が出てくると思います。渡辺恒雄氏にはそのような自覚が欠けているのは明白です。
 江戸時代の「士農工商」の身分制度をもう一度見直すべきだと思います。
志が高く、いざと言う時には身命を掛けて戦う「武士」が一番高い身分で、食料を生産する「農」が続き,同じく物を生産する「工」が何も作り出さない「商」の上にあるのは至極当然のような気がします。「商」の中でも物流を伴う方が上で銀行、証券、保険などはその下に存在し、マスコミはさらにその下なのだと思います。四方八方から石が飛んできそうなのでこのへんで。
(井上 豊夫)
日付:2002.12.6 題名:男の未練、女の未練
 高校が同級で今でも親しくしているT君が米国より一時帰国し、帰省して来たので彼の親しかった仲間と飲み会を計画しました。今まで何回か会ったメンバー以外に高校も大学も同じだった女の子(元)2人も彼に会いたいとのことで参加することになりました。飲み会の二日前にそのことを彼に伝えるとT君は「A子とは喫茶店で半日話したことがある。」「高校時代、雨の日にB子と一本の傘で学校前のバス停に行った事がある。」と34〜35年前の事を懐かしむのでした。
 飲み会の世話係としては人選に間違い無かったとが判り嬉しく思っていました。
飲み会当日、総勢八名が揃いT君がA子と喫茶店に半日一緒にいた件を本人に話した所、「全然覚えていない!」とA子は言うのでした。半日の間にA子が一回しかトイレに行かなかったことまでT君は覚えていていたのですが結局A子は思い出さず終いでした。
 T君はめげずにB子に雨の日一緒の傘で帰ったことを話しましたが、B子は「覚えていない、バス停が学校の前だったのでそんな事無かった。」と言うのでした。男が30年以上しっかり覚えていて、きっと死ぬまで忘れない思い出も「女からすれば単なる通行人に過ぎなかった」のです。
 女が忘れるのも相手によりけりではないかと思い、高校だけでなく大学でもバスケットボールをしていたB子に「バスケットボール部で長野に行った時,列車の中で偶然、上智の学生に声を掛けられ、金沢大学と言ったので『金沢から来てる井上というのが上智にいるけど知ってるか?』と聞かれ、バスケ部の一人が『あんまり変わっているので高校時代、家までつけた事がある』と言ったの覚えている?」と聞きましたが全く覚えがありませんでした。
 客観的に見て「未練がましいのは男の方」であり、女は熱烈な恋愛の末に別れても「割り切るのにそんなに時間を必要としない」のだと思います。時間を多く必要としない女ほどいい女なのだと思います。相手が覚えていない些細な事まで男は記憶に留めて死んで行くのです。
 「愛した時から苦しみが始まる、愛された時から哀しみが始まる」昔の流行歌の一節ですが、「苦しみ」を味わいたくないので「愛し方」を加減し、「哀しみ」を感じたくないので「愛され過ぎない」ようにするのが大人の知恵なんだと思います。けれど男も女も決して忘れられないような修羅場が無くとも、相手がとっくに忘れたような「男の未練」をきっとこの世の男達は大切に抱き続けて生きているのだと判って下さい。
(文責 井上 豊夫)

最近「女」という表現が少なくなり、意識して「女性」という言葉を使う傾向がありますが「使用方法の誤り」だと思います。みだりに「女性」を使うべきではないと思います。
日付:2002.12.13 題名:倒産記念日
1)年末の営業について
12月28日〜1月5日まで休ませて戴きます。一部の倉庫は地域により12月25日が最終出荷となる場合がありますので御注意下さい。
尚、1月6日は通常通りの勤務となります。何卒宜しくご利用下さい。

2)倒産記念日
ユナイテッド航空が倒産したそうで資産総額が242億ドル(3兆円)と新聞は伝えています。(アメリカでは負債でなく資産で表示するそうです。) ということは今までユナイテッド航空と付き合ってきた企業、個人がこれだけの金額を支払ってもらえなくなる可能性が大きいということです。中にはその為に自分自身の会社も連鎖倒産して路頭に迷う人も出ます。ところが新聞報道ではユナイテッド航空の飛行機は今日も飛んでおり,縮小するものの今後も営業を継続して行くそうです。アメリカの倒産では現実感がないなら「マイカル」を例に挙げるとマイカルの倒産で多くの中小企業が連鎖倒産し、多額の負債を中小企業の経営者は背負い、自己破産せざるを得ない人も出ています。調べたわけではありませんが多分自殺者も出ていると思います。ところがマイカルの不採算店は閉鎖されたものの多くの店は営業を継続しています。同じく倒産したはずの「長崎屋」「そごう」なども営業を続けています。倒産して多くの人に迷惑を掛けた大企業が縮小したとしても生き残り、そのあおりを受けた中小が最も悲惨な目に遭っているのが現実です。
2001年11月22日に倒産した「マイカル」は一年後の今年11月22日に記念日としてセールをやったそうです。自分達の会社の倒産で全てを失っただけでなく、多額の負債を背負った債権者のことを全く考えない「非常識」な発想だと私は思いました。「倒産記念日」をセールに利用するという発想は大企業は仮に倒産しても完全に消滅しないのだと経営者も労働者も信じているから生じるのだと思います。とんでもないことですが現実を見ると否定できないのも事実です。資本主義のルールで経済活動をする以上倒産した企業の規模が仮に大きくても「退場」すべきです。「社員を失業させない為に」倒産した「大」が残り、あおりを食った「小」が消えるのは何とも皮肉過ぎます。言葉遣いは適当でないかも知れませんが「折角倒産したのに存続したのでは自然淘汰は進まず、その業界の低迷が更に続くのです。」
 現在のルールでは倒産すると「負債」の大半は御破算になり、存続さえできれば債務超過の不良企業は一夜にして「優良企業」になれてしまうことも大きな問題です。必死に倒産しないように頑張ってる中小企業には聞かせられない御話です。
(文責 井上 豊夫)
日付:2002.12.20 題名:初暦の季節
 向田邦子さんの文庫本を読み返していたら「豆腐」という題の随筆の中で
“手のつかぬ月日ゆたかや初暦”という吉屋信子さんの句に再会しました。
学生時代に鎌倉に行った事があり、訪ねた御宅の隣に「吉屋信子」という表札があったことも懐かしく思い出されました。
 時の過ぎ去りし様はまさに“矢の如し”で今年もカレンダーを掛けかえる季節となりました。個人的には海運会社「MAERSK(マースク)」の3ヶ月続きのものと日本航空の通称「美女カレンダー」を愛用し、毎年架け替えて居ります。「MAERSK」の3ヶ月続きのカレンダーに初めて出会ったのは20歳台の後半に大阪の外資系貿易商に出入りしていた頃で「将来会社に自分の部屋を持てたら『MAERSK』のカレンダーを使いたい。」と思っていました。
 カレンダーは「戴くもの」と思っていましたが今年は書店で毎日の「月の満ち欠け」が判るカレンダーを見つけ、買い求めました。世俗にまみれて生きて行く中にも“月の姿を愛でる”気持ちのゆとりを持ちたいと思っていますが「手のつかぬ月日ゆたかや」になりそうな気もします。以前ベトナム中部のホイアンという世界遺産にも指定された町に行った時、ホイアンの人々は毎月満月の夜には町中の電気を消して「月を愛でる」と聞き、感心した事がありました。
 月を初めてじっくり眺めたのは高校3年生の秋、仮想行列の準備を毎日居残ってしていた時でした。居残っていたのは「迫り来る受験の不安」を少しでも大義名分を作って忘れたいと思っていた怠け者が多かったように思いましたが僕達の「出し物」は“神風特別攻撃隊”でした。「戦後民主主義教育」を受けた高校生ならパロディーにするのが当然と思われましたが、クラスに“ゼロ戦”の設計図を持っている者がいて設計の2分の1で”ゼロ戦”を三機作り、100%真面目に演じる事は日教組、高教組の教師達への痛烈なメッセージのつもりでした。(少なくとも僕はそう思って一切のパロディーを排除しました。) 半分出来あがった“ゼロ戦”の狭い操縦席の中でクラスの女の子と二人で月を眺め「あれは上弦の月だからこれからまだ大きくなるんだよ。」と話し、女の子もまんざらでもない様子で月を眺めていたのを昨日のように思い出します。トランペットを吹ける者が3人いて“海ゆかば”を演奏し、借用した本物の警察官の制服をアレンジした特攻隊員が水盃を交わし、もんぺ姿の女の子に見送られて“ゼロ戦”で出発する様子は翌日の地方紙に写真入りで紹介されたほどで、観客の父兄の中には本当に泣いている人もいました。審査員が教師達だったので元から優勝は無理と思っていましたが30余チームの中で第二位となりました。
“初暦知らぬ月日は美しく” 
同じく吉屋信子さんの句です。良いお年をお迎え下さい。
(文責 井上 豊夫)
日付:2002.12.26 題名:みだれ髪
 今年最後のウィークリーシゲミツとなりました。色んな事を書かせてもらいましたが、最近塩川財務大臣の発言の中に「150-160円くらいまで円安にすべき」「今度のG7で人民元の切り上げを提案する」というのがあり、11.08号で240円の円安を、10.04号で人民元の切り上げを主張した者としては少しですが嬉しく思っています。来年、この内どちらかでも実現すれば私共の会社としては大変な逆風となりますが(逆風こそがチャンスと思っています)日本全体としてはプラスになると信じています。
 閑話休題、先日たまたま見たテレビ番組で、病院勤務の若ハゲの悩みを持つ看護士の男性が同じ職場の看護婦さんに恋しており、なかなか打ち明けられなく悩んでいるという相談に20名程の無責任な芸能人が意見を述べるというのがありました。大半の芸能人の意見は「そんなもの当って砕けろで当然告白すべき」でした。「恋は告白すべきもので、幸せは自分で掴むもの」とほとんどの若者は信じ込んでいます。ところが「恋を打ち明け、相手も同じ気持ちと判った瞬間から、二人の恋のボルテージは下がり始める」のが現実で、多くのの若者が「恋のおわり」を感じて「恋の不感症」になっているように思います。
 会場の空気が「告白すべき」一色になりかかった時に中尾ミエさんが「ほんとうに人を好きになるということは相手が幸せになることを願うことなので、告白しないで、自分が仕事を一生懸命やっている姿を見てもらうべきだ。本当の恋とは『片思い』することです。」と発言しました。「好きになること=快楽の獲得」としか考えなくなった現代において「好きになることは相手の幸せを願うこと」という至極当り前の発言が「すごく新鮮に、さわやかに」聞こえました。
あなたは好きな人がいますか?
あなたは相手の幸せを願える人がいますか?
中尾ミエさんの発言に心動かされていた時にカラオケで美空ひばりさんの「みだれ髪」を聞きました。畏友、大村君より以前に“春に二重に巻いた帯、三重に巻いても余る秋“の一節のみを聞いて「うまい文句」だと感心してましたが、これは三題目で一番いいのは二題目でした。以下「みだれ髪」より
 すてたお方の幸せを
 祈る女の性かなし
 辛や、重たや、わが恋ながら
 沖の瀬を行く底引き網の
 舟に乗せたい、この片情け
相談者は中尾ミエさんの意見に賛同しました。御愛読ありがとうございました。
日付:2003.1.10 題名:今の日本人が心配だ
1)謹賀新年
明けましておめでとうございます。今年も宜しくお願いします。
1月7日〜11日までフランクフルトに行きます。新しい企画のアイデアを得られればと思っています。

2)「今の日本人が心配だ」
マレーシアが英国の植民地の時代に生まれた独立運動家が1980年代末(勿論独立後)に詠んだ詩を紹介します。

  かつて日本人は清らかで美しかった
  かつて日本人は親切で心豊かだった(中略)
  何千万人の人の中には少しは変な人もいたし
  おこりんぼや わがままな人もいた
  自分の考えを押し付けていばってばかりいる人だって
  いなかったわけじゃない
  でも その頃の日本人はそんな少しのいやなことや
  不愉快さを越えて おおらかで真面目で
  希望に満ちて明るかった
  そんな日本人が 心配だ
  本当にどうなっちまったんだろう
  日本人は そんなはずじゃなかったのに
  ほんとうの日本人を知っているわたしたちは
  今は いつも歯がゆくて くやしい思いがする(中略)
  これが本当の日本人なのだろうか
  自分たちだけの楽しみや 贅沢にふけりながら
  自分がお世話になって住んでいる
  自分の会社が仕事をしているその国と国民のことを
  さげすんだ眼でみたり
  バカにしたりする(中略)」
  
以上 土井良樹著「日本人よ ありがとう マレーシアはこうして独立した」より
欧米人の前で英語を使うときには必要のない笑顔を作り、卑屈な態度と表現で二言目には「Sorry」と言うくせに、アジア人の前では一転して横柄な態度に出る日本人を私も見たことがあります。そんな人に限って歴史を勉強しようとしていないので「戦争中のことを持ち出されるとすぐに懺悔してしまいます。」かつてアジアの人々に敬慕された日本人がいたことを思い出し、自分も紛れもないアジア人であることを自覚しましょう。
(文責 井上豊夫)
日付:2003.1.17 題名:今年フランクフルトで感じた事
 正月明けをフランクフルトで過ごすのが新しい習慣になって五年になります。
最初は「ハイムテキスタイル」自体をよく理解できておらず、広い会場を全て見なくてはいけないと思い、必死で歩き回りましたが最近では漸く関連の深いブースのフロアーのみ集中して回れるようになりました。1998年の第一回目の頃と比較するとアジア諸国の出展フロアーが随分増え、今回は5フロアーにもなっていました。 1999年には1フロアーだった事を思うと随分様変わりです。以前にも述べた事がありますが基本的に主催者側は「有色人種差別意識」があり、同じ商品群を取り扱っている会社でも「白人諸国」と「アジア諸国」に分けられています。フランスのタオル会社と中国のタオル会社が並ぶ事はありません。フロアーは違っても会場である「メッセ」の敷地内に世界中のタオル会社が集い、重量当りの価格が欧米とアジアでは2:1位の差が存在するのです。「アジア隔離策」の効果もあり同―展示会でこれだけの価格差が大きな矛盾とされずに存在し得ることは不思議な気がしますが徐々に『悪貨は良貨を駆逐する』が進行していると私は感じています。例年7万人を越える入場者ですが今回は少ないように思いました。前述のような大きな価格差の存在は徐々に明らかになり、ウオルマートやカルフールなどの安売り量販店が直接アジアから仕入れ、以前のようにEU諸国だけで高値を維持できなくなっているのだと思います。「市場経済」は従来、約7億人の先進国のみで構成されていたのに「社会主義計画経済」が崩壊し、中国とロシアを中心に人件費が旧住民の10分の1〜20分の1の15億人が「新住民」として「市場経済村」に加わったと私は考えています。現在日本に蔓延している「デフレ」は今やEU諸国や米国にも感染しつつあるように思います。フランクフルトの「ハイムテキスタイル」も「デフレ」の影響を受け始めていると感じました。
 今や「デフレ」は日本のみの問題ではなく、EU,米国を含む世界中に広がっているのです。一言でその原因を言えば「中国の安値輸出」だと思います。1970年台1:1.4だった対ドル相場は何度かの一方的切り下げの結果,1:8.3まで切り下げられました。当時は誰も中国経済に注目する者はなく、「黙って一方的切り下げを見過して」しまったのでした。中国の通貨、人民元が切り上げられない限り、世界は「デフレ」の淵に沈むしかないのだと思います。「人民元の切り上げ」が実現すれば助かるのは先進諸国だけでなく、一番恩恵を受けるのはタイ、マレーシア、フィリピンなど東南アジア諸国、中南米諸国など「中国の輸出攻勢」で販路を失った国々だと思います。世界を「デフレ」から救う道は「人民元の切り上げ以外にないのだと思います。
(文責 井上 豊夫)
日付:2003.1.24 題名:再考 みだれ髪
 「男の未練と女の未練」について様々なご意見を戴きましたが金沢で40年間
水商売をしている女性にこの質問をしたところ、答は明快でした。「それは男の
方が未練がましいに決まっている。だってストーカーはほとんど男でしょ。」
続いてその店で「みだれ髪」を歌い、「いいなあこの歌は」と言うと「確かに名
曲だけど、この歌は星野哲郎が書いた男の歌ね。三題目の最後の『ひとりぽっ
ちに しないでおくれ』と女は言わない。『ひとりぽっちに しないでおくれ』
というのは男よ。」と同じ女性はいうのでした。
 後目愚妻と車の中で「みだれ髪」の「すてたお方の幸せを 祈る女の性かな
し。」の部分を聞いていると「こんな女がいると思ったら大間違いよ。大抵の女
は『すてたお方の不幸を析る』と思うし、私もどちらかと言えば『不幸を祈る』
わ。」とのたまうのでした。ほかの読者からも「相手の幸せを願ってみてもどう
なるものでもない。」と言う否定的な意見がありました。
 形勢不利と少したじろぎましたが拉致被害者家族会の皆さんを見ていると、
男女間に限らず、他人の幸せを思う事は大切だと改めて強く思いました。醒め
易い大衆の関心の中で9.17以来4ケ月近く経つのに関心が薄れないのは家族会
が生存確認グループと死亡と伝えられているグループになってしまっても互い
に他の家族の事を思い、自分のことのように他人の幸運を喜び、悲しみを分か
ち合っているからではないでしょうか?人が最も美しく見えるのは他人の幸せ
を願い、それが実現すれば一緒に喜び、実現しなければ一緒に悲しむことでは
ないやしょうか?他人同士の集まりである「拉致被害者家族会」のメンバー達
は家族会全体が一つの家族になったように見えます。同じ被害に遭遇したとい
う「共通項」があればこそ家族会の人々は他人の幸せを願えるのだと思いまし
たが、もし日本人全体が一つの家族のようになれれば理想的だと恩いました。
勿論願ったからどうなるものではありませんが他人の幸せを願える人は「美し
い」と思います、
 五人の拉致被害者達は40歳代と思いますが日本にずっといた同年代の人に比
べて「美しく」見えるのは言いたいことを胸に秘め,家族の来日が実現するまで
堪えている「何か」が同胞に伝わるからではないでしょうか?拉致事件はあっ
てはならない悲しい事件でしたが他人の幸せを「祈る美しさ」と言いたい事を
 「秘める美しさ」を教わった気がします。(文責 井上豊夫)

日付:2003.1.31 題名:イラクと北朝鮮
これ程までに米国が相手によって態度を変えたことが嘗てあったであろうか?
最近の米国の態度は「イラク」には極めて冷酷に戦争も辞さないと脅迫し,一方北朝鮮には「核」を断念さえすれば文書で「北朝鮮との不戦を約束してもいい」と言っています。

イラク : (1)核開発能力がない上に、核の発射手段であるロケット技術もない。
(2)国連やIAEAの査察を受け入れている。
(3)アルカイダなどのテロ組織の行動に理解を示しているが、直接の繋がりを証明するものはない。

北朝鮮 : (1)核開発能力があり、核の発射手段であるロケットであるノドンやテポドンを有している。
(2)IAEAの査察を突然拒否し、査察官を国外追放し、NPT条約の脱退を表明している。
(3)大韓航空爆破事件、潜水艇テロリスト韓国侵入事件、朴正煕大統領暗殺事件、ラングーン爆破事件、多数の拉致事件など国家テロを繰返している。

如何見ても「危険度」は北朝鮮の方が高いのに米国の態度は「イラク」には「戦争」,「北朝鮮」には「対話」なのです。米国の「錦の御旗」が「テロリズムの撲滅」であるのならばむしろ戦うべき相手は「北朝鮮」です。北朝鮮は数限りなく国家テロを犯していますが被害者は全て「韓国」「ビルマ(ミャンマー)」「日本」など「アジア諸国」なのです。米国にとっては可愛いのは「自国民」だけであり、アジア人が幾ら亡くなっても気にはならないのだと思います。しかも「イラク」とは嘗て「湾岸戦争」で戦った事があり、万に一つも「負ける心配がなく、僅かな犠牲で世界第二位の埋蔵量の石油を手中に収めることが出来るのです。一方「北朝鮮」は嘗てより希薄になったとはいえ、「社会主義国同士の同盟関係」にあった「中国」や「ロシア」が背後にあり、もし米国が「北朝鮮」を攻撃した場合、大変面倒なことになり、折角表面的には友好的関係を保っているっている「中国」「ロシア」と対峙する勇気をブッシュ大統領は持ち会わせないと思います。万一、北朝鮮を占拠し、金正日を追放してもそこには「石油」もなく、あるのは飢餓寸前の「難民」だけです。米国からの情報では愚かな米国民でさえ、最近は「北朝鮮」のほうが脅威だとの意見が強くなっているようです。如何考えてみても「イラク」を今攻撃する理由は見当たりません。米国べったりの態度しか示せなくなった「日本」が目覚めるべき時は到来しているのですよ、小泉さん !
(文責 井上 豊夫)
日付:2003.2.8 題名:許されざる妄想
 あくまでイラクと戦争を構えたい米国に引き摺られるだけの日本は果たして国家なのでしょうか?経済力からすれば日本より「小国」の印度、パキスタン、イスラエルはNPT(核不拡散条約)に加盟せず、国連安保理常任理事五カ国=核保有国の独善的姿勢を批判 しているのに「日本」にはもう主張すべき 正義もなく、NPTに加盟し、無前提に大国に服従の姿勢を見せるだけとなっています。そしてこれらの 偽善の根源が「自ら戦力の保持を否定する憲法」を57年間も改正しようとせず、自衛隊という軍隊の存在をあいまいな屁理屈を重ねて「正当化」している所にあると思います。
 憲法九条のこのような解釈が罷り通るとすればあらゆる法律は勝手な解釈が成り立つことになります。憲法九条の このような解釈を認めている限りこの国を「本当の法治国家」と呼べないのではないでしょうか?
 33年前この憲法改正を主張し、三島由紀夫氏と森田必勝氏は「割腹自殺」致しました。他に「合法的手段 で憲法改正がなされ、日本が真の独立国家になる可能性があれば決して二人は「死 を選ばなかった」 と思います。政治家も戦後教育に毒された国民も自らの手で決して憲法を改正しようとはしないと絶望した からこそ二人は「憲法改正」と刺し違える道を選択せざるを得なかったのです。それでも「憲法は一字一句改正されず」今日に至って居ります。二人の死も正面から捕らえようとせず、「文学」「美学」「情死」で片付 けて「面倒なことは全て先送り」にして来たのです。
 最近の世論調査では「憲法改正容認」は過半数を超えていますが、「憲法改正」を全面に打ち出すことは政治家としては得策ではないようだし、自民党国会議員の中にも「憲法改正反対、又は無関心派」は半分くらいいるようです。
 ではどうすれば「憲法改正」が実現し、自衛隊が正規軍として認知され 日本が小なりと言えども「自分の意志」を持てる独立国家になれるのか?それだけを二人の死の後考えていました。選挙によって合法的に改正されるとはとても思えません。三島氏と森田氏に続いて「命を捨てる道」 を選んでも結果は同じでしょう。
 三島氏は1970年安保闘争の学生運動が激化し、警察力だけでは押さえきれない状態になり、自衛隊に治安出動要請があった時こそ「憲法改正」の唯一の機会と考えていましたが結局「その時」は訪れませんでした。治安出動の可能性が無くなった今「憲法改正」を実現させることができる残された唯一の方法があることに気付きました。唯一残された方法とは北朝鮮がノドンやテポドンを日本に向け発射することです。
「全て先送り」してきた日本人でもようやく 「自分で自国を守る必要性」を感じることが出来ると思います。勿論これは「許されざる妄想」です。でも妄想 にすがるしかない所まで来ているのだと思います。2002.09.17小泉訪朝で8名の被拉 致者が死亡し、5名生存が明らかになるまで「日本のマスコミ」は「拉致被害者家族会」「拉致被害者を救う会」の主張を殆ど無視し 続けてきたのです。9.17小泉訪朝は「日本のマスコミ」に対する「テポドン」だった のです。日本に向けてノドン やテポドンが飛来することはあってはならないことですが、そんな北朝鮮のミサイル にすがっても「憲法改正」 を実現させたいと半ば本気で思っているのも事実です。皆さんから強く批判されることを覚悟の上、正直な妄想を述べさせてもらいました。
(文責 井上 豊夫)



日付:2003.2.14 題名:日米安保条約を読んだ事ありますか?
 ‘60年安保、’70年安保と言っても実感の無い世代が多くなっていますが「日米安全保障条約」が国論を二分した時代が嘗てあり、その運動の中心が大学生であったことは現在の大学生から想像する事は難しい気がします。運動に参加していた学生はある意味で純真であったのでしょうが、一種のファッションとして「反体制=安保反対」を選択していたのだと思います。反体制学生達の大半、いや多分ほとんどが一度も「日米安保条約」を読んだ事がなかったと思います。

‘70安保から33年が経過し、「安保廃棄」の声を聞くことも少なくなりましたが今、イラクや北朝鮮の問題がクローズアップされ、日本のとるべき態度がはっきりしないと小泉首相が批判されていますが、その背後に「日米安保体制」があることを再認識しないと何も見えてこないのだと思います。

 「日米安保条約」は一言でいえば「不平等条約」です。この文章に「日米安全保障条約」の全文を添付しますので読んでみて下さい。10分で読めるはずです。「不平等」の意味は「米国有利の意味」ではなく、「日本側に有利」で「不平等条約」となっていると私は思います。なぜなら第5条に「日本国の施政の下における領域」が攻撃されたら「共通の危険に対処するように行動することを宣言する。」と書かれています。即ち、日本が攻められたら米国は一緒に戦うと言っているわけです。その為に日本は米国の施設(基地)使用を許す(第6条)事になっています。日本が攻められた時だけ米国は一緒に戦うと書いてあり、逆に米国が攻められた時には日本は一緒に戦うとは書いてありません。正にこの点が不平等だと思います。理由はともあれ米国が今戦争を始めようという時「日米安保」に書いてないからと言って、今日本が米国の応援をしなかったら将来、日本が攻められた時米国は「命がけで」戦ってくれるでしょうか?だから小泉さんは中途半端な態度しか示せないのです。

 では本当に平等な日米関係を作るにはどうすれば良いのでしょうか?方法は二つあります。

(1) 安保条約を改定して米国が攻められた時に日本が一緒に戦うことを明記し,米国に基地提供を求め、自衛隊が駐留する。

(2) 安保条約を改定して双方とも、例え一方が攻められても軍事的に支援を一切しない事とし、「日米友好条約」に変更する。



平等と言うのは簡単ですが本当に平等とすると「大変な事になる」ことがお判り頂けましたか?現在、米国の軍事的庇護の下にいて「好き勝手な事を言う愚かさ」だけは認識すべきです。「憲法改正」を行い、自主防衛体制を作り(2)を選択するべきと言うのが勿論私の意見です。皆さんは如何ですか?

(文責 井上 豊夫)
日付:2003.2.21 題名:日米安保体制下の戦争放棄
 先週「日米安保条約をよんだことありますか?」と題して書かせてもらいましたが一部から反応があったものの期待したほどではありませんでした。添付の条約が見にくかったのかもしれませんのでweb siteで読み易くご覧下さい。是非御意見を御待ちします。 http://list.room.ne.jp/~lawtext/1960T006.html
 憲法第9条で 戦争放棄を宣言し、”陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。”と明確に条文に書いてあるにも拘らず屁理屈を捏ねて自衛隊を作り、「日米安保条約」を結ぶ事により米国の核の傘の下に身を潜め、実質的に米国の核に守られながら「唯一の被爆国として核の廃絶を叫ぶ」という矛盾を矛盾と感じない事を「偽善」と呼ばないわけにはいかないと思います。
 例えとして適当か判りませんが、自分の手は汚さずに他人に「人殺し」をさせておきながら、自らを平和主義者と自認するようなものです。刑法で言えば「共同正犯」」で、実行犯と同罪です。けれども冷静に考えてみると私を含め大半の日本人がこの「偽善者」なのです。日米安保条約体制下で戦争放棄の憲法を信奉するのは「ステーキの肉を頬張りながら、動物愛護を議論するのに似ています。」
 米国に守ってもらっていながら「米国の政策」に反対するなどということは「できない」し「許されない」のです。例え米国の考えが間違っていても米国に一方的に守ってもらっている以上「逆らっては行けない」のです。もし米国にちゃんと意見を言いたければ「一方的に守ってもらう」関係を返上するしかありません。小泉さんがはっきりした事を言えない訳くらい理解すべきです。もし日本国宰相小泉純一郎氏に明確な態度表明を希望するなら「憲法改正」を行い、「安保条約」を廃棄するしかありません。「憲法改正}も嫌、「安保条約」も嫌、「戦争」も嫌では生きていけない現実をしっかり認めなければなりません。
やっぱり、テポドンが飛んでこないと日本人の「偽善」は解消しないのでしょうか?
(文責 井上 豊夫)



日付:2003.2.28 題名:論理的道筋
1)3月3日(月)臨時休業の御知らせ
社員研修旅行の為、3月3日(月)勝手ながら臨時休業させて頂きます。
何卒ご理解下さいますようお願いします。

2)日本海に北朝鮮のミサイルが落ち,少し騒ぎになりました。拙文「許されざる妄想」2003/02/08号で「ノドンやテポドンを日本に向け発射すること」を書いた者としては複雑な気持ちでニュースを聞きました。
論理的に如何考えても理屈が合わないのに、イラクを悪者に仕立て上げる米国の振るまいを見ていると太平洋戦争が始まった頃も同じだったような気がしました。勿論、私は未だ生まれていなかったので体験的ではありませんが今のイラクと同じように当時は「日本」が国際的いじめに遇っていたのだと思います。
「ABCDラインで石油を止められ、包囲された日本が打って出ざるを得なかったのは当然だった。」と教えてくれたのは、欧州人の白人教授(神父)からでした。
 2月23日の地方紙に曽野綾子さんの「論理的道筋」というエッセイ(多分、産経新聞からの転載)が眼に止まりました。
「自分の国が長距離ミサイルも核兵器も持っていて、武器も売っているのに、人の国がそれらのものを持ったりしてはいけない、というのは身勝手だ。」
世の中にまともに物事を論理的に考えることの出来る人が少なくとも一人いることを発見して嬉しく思いました。
 湾岸戦争の時、イラク軍は壊滅状態で、簡単にバグダッドまで侵攻でき、サダムフセインを殺す事も国外追放する事もできたのに「深追いせず」引き揚げたのはサウジアラビアに「危険なフセインが未だいるので何時又攻めてくるかもしれない。だから米軍がサウジアラビアに駐留するのが一番です。」と言う為でした。ウサマ・ビンラディン氏の怒りの最大原因は「聖地サウジアラビアに米軍が駐留している事」でした。極論すればもし米軍がサウジアラビアに駐留しなかったら9.11事件は起きなかったと見ても良いと思います。
 米国は「テロ撲滅」の為の正義の戦いと言いつつ、アフガニスタンを攻め,今イラクを攻めようとしていますが、これにより殺された人々の家族,友人が新たにテロリストになるだけです。本当に「テロを撲滅」しようと思うなら少し面子は傷つくでしょうが「サウジアラビアから名誉ある撤退」をする事でしょう。もし、ブッシュ大統領が「名誉ある撤退」を決断するなら世界は躊躇することなく「ノーベル平和賞」を彼に贈るでしょう。
安保理の常任理事国である五ヶ国の身勝手な論理、「自分たちが持つ大量破壊兵器や核兵器は問題無く、五ヶ国以外の国が持つ事は絶対許せない。」を理解できる人がいたら手を上げて下さい。
(文責 井上 豊夫)
日付:2003.3.8 題名:中国 今昔物語
3月1日〜5日まで10人の方々と上海周辺を小旅行しました。
今や、「日出づる国日本」ではなく、「日出づる国中国」の感があり、10%近い経済成長を続ける中国便はどの航空会社も満席状態が続いています。
 以前の中国、と言っても私が知るのは1976年以降の中国に過ぎませんが、大きく変わった所とそうでもない所があるように思います。1970年代に広州交易会に参加した日本人の土産の人気商品は「印鑑」でした。彫り賃も込みで数百円だったこともあり、自分のだけでなく友人、知人の分まで大量に注文する事もありました。ただ難点は10日間ほど待たなくてはいけない事でした。長く居残る友人に領収書を渡し、代わりに持ち帰ってもらうことが多かったことを思い出します。今、国際線ロビーには「印鑑屋さん」が店を開き看板には「5分間で彫れる」と書いてあります。今の価格は知りませんが、その度に「あの10日間は何だったのだろう」と思います。
 もう一つ変わったものにトイレがあります。中国へ頻繁に行く女性から「何度行ってもトイレだけは何とかしてほしい」と聞かされたことがあります。以前、中国に客を案内するコースに街中の「公衆トイレ」は欠かせませんでした。間仕切りが20cmくらいしかなく、ドアがないので丸見え状態でした。水が流れないので目をそむけるような光景でした。こんなトイレでは「北京オリンピック招致」にも影響すると考えたようで清潔な「有料トイレ」が増えました。今回の小旅行で蘇州に行った時、高速道路の出口付近のトイレに行きましたが運良くと言うか悪くと言うべきか、水の流れないトイレでした。あまりの凄さに「思い切り用を足せない」方もありました。でもその後に行った「寒山寺」などの有名観光地のトイレは「日本のよりきれい」と言われる方もありました。
 これからも中国詣ではますます盛んになり、「俄か中国通」が増えるのでしょうが「印鑑を作るのに10日間も待たされたり、目をそむけるようなトイレを経験した」ことは大切なことだと思います。
 大都市だけ見れば表面的には繁栄し全てが変わったようにも見えますが本質的には変わっていないことを認識する必要があります。バスに乗り遅れまいと飛び乗るのは避けた方が良いと思います。今こそ冷静な眼で中国を見ることが必要なのだと思います。
(文責 井上 豊夫)

日付:2003.3.14 題名:Just dinner !
 1983年4月に今の会社を作って以来早いもので20年の歳月が流れました。世間並に言えば20周年という事です。
20年前、私が33歳だった頃を思い返すと「昨日の事」のように感じられます。残された時間がどれだけあるのか判りませんが、仮に20年あとしても「それがたいした時間でない」事だけは明らかです。
 1983年6月合繊織物の売り込みの為に初めてシンガポールへ行きました。シンガポールには華僑ルートとインド人ルートがあり、私は比較的安全な「華僑ルート」を狙いました。華僑たちの会社は「サーキュラーロード」と「ジャランサルタン」の2ヶ所に、インド人たちは「ハイストリート」にその多くが集中していました。売り込みに来る日本人のほとんどが「英語」だけで商談する中で「中国語」も話す私は特に「歓迎」されました。シンガポール人の75%が中国語を話し、その出身地は潮州,福建あたりが多く、老板(中国語で社長、ラオパンと読む)の机には「聞茶セット」が置かれ、小さな杯で「お茶」が振舞われてから商談が始まります。在庫品を中心に商談も少しまとまり、有名な「屋台料理」も堪能し中国への移動日までの一日をホテルで過ごすことになりました。
泊っていた「パークホテル」には屋外プールがあり、友人もいないのでプールサイドで時間を潰すことにしました。日曜日だったこともあり、プールは賑わいを見せていました。降り注ぐ南国の太陽を全身に浴びながら泳いでいると、私の寝椅子の隣に黒のワンピース水着の女の子が現れました。見事なプロポーションで込み合うプールサイドでも一際目立ち、多くの視線を受けていました。「泳いでいる場合ではない」と瞬時に思い、席に戻りました。彼女は全身にオリーブ油を塗っており少し浅黒い肌が輝いていました。宿泊客ではなく、このプールの会員で休みの時に利用するオリベッティシンガポールに勤める女の子でした。プールサイドのボーイが彼女の所に来て、向かい側の白人の男が「飲み物を送る」と言っていると伝えましたが、彼女は即座に断りました。断り方が慣れており幾度も同じ状況になっているのだろうと思いました。隣という「地の利」を生かし、白人の男に負けるわけにはいかないと「初めて来た事、誰も友人がいない事、今晩一人で食事するのが苦痛である事などなど」を寝椅子に横になりながら英語と中国語で話しました。「中国語の方が上手ね」と言われ傷つきましたが彼女の返事は「Just dinner !」でした。
(文責 井上 豊夫)
日付:2003.3.20 題名:開戦前夜に思う
 自分たちはイラクの何千倍、何万倍の大量破壊兵器を持ち、過去にはイラクを含む多くの国に兵器を売り込みながら、自分たちに反抗的だからというだけで「因縁」を付けて大統領の退陣と亡命を要求し、聞き入れられなかったら宣戦布告するなんてことが今行われようとしています。
「良い大統領でも悪い大統領でも他国に辞めろと言われるのは納得がいかない。」というイラク人のインタビューが印象的でした。
 笑ってしまったのは「人間の盾」としてイラク入りした日本人たちでした。開戦が確実となった途端そのほとんどがイラクを脱出してしまい、ヨルダンのアンマンでテレビ局のインタビューを英雄気取りで受けたりしていることです。
 神戸地震の後に「怖いもの見たさ」「好奇心」だけで大量に神戸に押しかけた「迷惑ボランティア」と同じでレベルだと思いました。戦争が始まっても重要施設に張り付いている日本以外の「人間の盾」の人々もいると思うので全てを否定しませんが兎も角日本人の「軽薄さ」には驚きました。
 同じ日本人でもイラク北部のクルド人自治区で長年難民援助を続けているNGOグループ「ピースボート」の岸谷美穂さんはTBSのインタビューで去就を尋ねられ「七年間行ってきた難民支援だし、一番大変な時期に逃げ出す事は出来ないので私は残ります。」と明言していました。皆さんもご覧になったことがあるかもしれませんが彼女は大変な美人です。私の眼で見ると彼女の美しさはアウンサンスーチー女史と双璧だと思っています。以前テレビで彼女を初めて見た時は「ボディーガードがいないと歩けないほど治安が悪い。」と言っていましたが「彼女ほど可愛ければ日本でもボディガードが要る。」と私は思いました。
 根性無しの「人間の盾」も日本人なら「岸谷美穂さん」も日本人です。
できることなら米国の爆弾が岸谷さんのいる所に落ちない事を願わざるを得ません。

(文責 井上 豊夫)
日付:2003.3.28 題名:現代の目利き
 先日趣味として「サーキットレース」に参加されている得意先の社長が来社され、私の車に同乗されました。私は車も音痴なのですが3年前から「ジャガーSタイプ」に乗っています。助手席に座るや否や、変速レバーの溝が直線でなくJ型になっているのを見つけ「これはJaguar のJですね。」と言われました。ラジオやエアコンの表示などが集中してる所が円くなっているのを見て「正面から見たジャガーの特色ある円形をイメージしたものですね。」とも言われました。どちらも彼の指摘がなかったら多分永遠に気付かなかったと思います。
 一つのものに造詣が深くなると初めて見たものでも一般人が気付かない事まで瞬時に閃くのでしょう。
 イラクで戦争が始まったので久し振りにNHKで軍事評論家江畑謙介氏の顔を拝見する事が多くなりました。江畑氏と私は学部は違いますが(江畑氏は理工学部)同じ1973年の上智大学卒業で何の面識もないのですが心密かに彼の活躍に声援を送ると共に寂しくなった彼の頭髪のテレビ写りが気になり「お辞儀なんかするな!」と心の中で叫んでいます。彼の軍事知識は「ノーベル賞もの」でどんな戦闘機でも戦車でも見ただけで型番まで正確に言い当てます。彼の軍事知識の幅の広さと奥深さは神業に近いと私は思っています彼に感心する時は何処かで戦争が起きている時なので多少複雑なものがありますが一つの分野にこれだけの知識を持つ事の素晴らしさは感動ものです。
 個性に乏しく、何処を切っても同じ金太郎飴のように人生を無駄に消化している人が多い中で「誰にも負けない分野」を持つ事は大切な事だと思います。そしてその知識が自分の専門分野に生かせるものであれば尚幸いだと思います。ノーベル化学賞を受けられた田中幸一氏も悪く言えば「専門バカ」かもしれませんが「現代の目利き」の一人に挙げられると思います。折角の人生です。今からでも遅くないと思います。あなたも「現代の目利き」にチャレンジして下さい。

(文責 井上 豊夫)

訂正 : 先週号で 岸谷美穂さんのNGOを「ピースボート」と書きましたが「ピースウインズジャパン」に訂正させて頂きます。








日付:2003.4.4 題名:at breakfast
 振り返れば一時期でしたがインドネシアと取引をしたことがありました。二億以上の人口を抱えながら経済の実体は人口の3% しかいない「中国系」に握ぎられています。
 初めてインドネシアに行く事になったのは以前大手合繊メーカーの輸出部でニューヨーク駐在経験もあるB氏の出向先の会社がジャカルタ事務所を開設したからでした。
 タオルの輸入は80%近くが中国製、15%がベトナム製 第三位が数%のインドネシアでした。カントリーリスクのヘッジの為には既に取引があった中国以外に仕入先を開拓する必要に迫られていました。
 1995年の初夏にB氏に誘われ、ジャカルタに着きました。元ニューヨーク駐在員というと「英語が上手でスマートになんでもこなす」イメージが強いようですが駐在員の多くは(勿論、畏友大村外志男君は違いますが)あまり英語が得意ではなく、特に駐在先に日本人の同僚が多い大手企業ほど怠け者でも通用してしまうみたいです。B氏の話す英語を聞くとこちらが溌剌と英語を喋れるようになるのが不思議でした。
 B氏と同じホテルに泊り、一緒に朝食に降りて行くとレストランで美しい女性がブッフェスタイルの料理を採っている所でした。初めは日本人かとも思いましたが余りに美しい脚は東南アジア系に違いないと思い始めました。席も話を出来るくらい近く、食事中も彼女の顔が眼に入りました。暫くすると彼女の前に男が現れ小声で話し立ち去って行きました。朝食が進み、終わりかけた頃にB氏はトイレに行きたいと言い出し、一人部屋に戻って行きました。一人残された私に彼女は「日本人ですか?」とたどたどしい日本語で声を掛けてきました。彼女は日系企業勤務のシンガポール人でした。
 彼女の説明によると先程彼女の所に来た男はシンガポールに駐在している妻子ある日本人で簡潔に言えば彼女はその日本人の「愛人」でした。会社の同僚四人でインドネシアに出張来た彼のスケジュールに合わせて彼女はこっそり同行しており、今日彼は同僚とゴルフに行ったので「今日私は一人でする事がない。一日一緒にショッピングに付き合って!」と言うのでした。「残念ながら今日は工場に行かなくてはいけない。あなたの彼は奥さんと別れるつもりが無い様だし、日本に転勤になったら捨てられるに決まってる。」と言いました。
「私だけスケジュールを変更して残るので明日逢えない?」と彼女が言った時にカバンを持ち手を振るB氏が見えました。

(文責 井上 豊夫)

先週号の訂正:田中幸一さんを「田中耕一さん」に訂正下さい。






日付:2003.4.11 題名:解放とは何か?
「イラク国民を解放する為に米英両国は戦争を始めた」と言っています。軍事的に陥落したバグダッドからの映像を見ると無警察状態では政府機関の建物から電器製品やソファーなどを略奪した人々は歓喜の表情で「サンクス ミスター ブッシュ」などと叫んでいました。イスラムであれキリスト教であれ二言目には「神」を口にする人々とは思えない光景でしたが一方で「これが解放なのかもしれない」とも思いました。
 学生時代にも「解放」という言葉をよく耳にしました。全共闘が神田にバリケードを作った地域は「解放区」と呼ばれ、一時的に無警察状態になったことがありました。実際の「解放区」はごみだらけで汚く、フリーセックスから最終的には快楽殺人まで許容される人間の本性まるだしの世界が待っているだけでした。
 バグダットのイラク人を笑えない「解放区」でしたが「国家」を否定し、自らを「市民」と自認する勢力は未だに根強く残っていますが「解放区」の実体が理解できれば「国家の必要性」が理解できると思います。
 中国では1949年の共産党革命を「解放」と呼び、解放前、解放後などと言ったりします。ご承知のようにこの「解放」の後に待っていたのは経済的には塗炭の苦しみと餓死,政治的には言論の自由の無い暗黒の時代でした。
 ベトナムでは「ベトナム民族解放戦線」が1975年に南ベトナムを「解放」してから中国と同じく塗炭の苦しみと餓死者を出し、海にいかだや舟で漕ぎ出し「ボートピープル」と呼ばれたことはご記憶にあると思います。
 こうして見てくると「解放」を旗印にされたことは今回の米英だけでなく中国、ベトナム、その他の社会主義国を含めて「ろくなものでなかった」ことだけは判ると思います。
 誘拐された人を救出するのは本当の「解放」でしょうが政治的「解放」の多くが欺瞞に満ちたものであり、ほとんどの場合「解放」=「大きな御世話」だったと思います。他人を解放するなどと言う考えは「僭越至極」で今回の米英のようにイラク国民から依頼があったわけでもないのに「解放」に出かけるのを普通の人々は「侵略」と呼びます。

(文責 井上 豊夫)



日付:2003.4.18 題名:Ms. Bee
 正確な日付は忘れましたがタイにもタオル工場を訪ねて行ったことがあります。安く回るには「パック旅行」で「シンガポール---バンコック周遊の旅」というのがあり、一人の場合相部屋OKで申込むのがノーハウでした。他に一人、相部屋OKで申込む者などいるはずが無く,安く一人で泊れるのが狙いでしたが漸く旅行社も盲点に気付き現在では「相部屋OK」は無いようです。
 シンガポールからバンコックの空港に着くと「パック旅行」の参加者は私一人でしたが、ちゃんと出迎えもありました。けれども一人の客にベテランを付けるのは勿体無いと思ったのか日本語があまり上手ではない可愛い女の子で、本当はすごく長い名前なのですが旅行社でも誰も知らないのでBeeと呼んでと言いました。
 バスではなく乗用車でホテルまで送ってもらい、準備してくれた市内観光を断り、帰国の日の空港までの送りだけ頼みました。
「私は明日どうすればいいの?」と彼女は不満そうでした。
 タイのタオル工場を回り価格を聞きましたが予想以上に高く商売は難しそうでした。日系の合繊工場では小松から駐在員として来ていたAさんに誘われ、有名な歓楽街「タニヤストリート」のクラブに行きました。日本では水商売の女性に興味引かれる事は稀なのにタイでは「今宵逢う人皆美しき」と言った感じで全員が美しい女性でした。Aさんは馴染みの客で随分親しそうでした。私の相手をしてくれた女性も大変美しく、微かに湿って冷たい手をしていました。タイでは10歳くらいの美しい少女の買出しがあり、田舎で将来性のある少女が買われて行き14〜15歳までバンコックで育ててから稼がせると聞きました。「成れの果て」の日本の水商売とは根本的に違うのでした。
 タイの女性は勤勉な上に笑顔は自然で美しく、日本中のサービス産業はタイ人の女性に任せるべきと思いました。
 男同士のタイ旅行と言えばその大半が「買春」目的でした。踊っている女の子を自由に選べる場所があるのだし、産業の一つになっているので必要悪なのでしょうが、ホテルで朝食を取っている時に日本語で声高に聞こえる「昨夜の女自慢」だけは慎んでもらいたいと思いました。
(つづく) (文責 井上 豊夫)
日付:2003.4.25 題名:Ms.Bee その 2
帰国の日、天気は良かったのですが前夜降った雨で堤防らしきものがないチャオプラヤ川(メナム川)は瞬く間に氾濫し河のほとりのホテルは褐色の水の囲まれ、陸の孤島になっていました。「迎えに来るだろうか?」と心配していると、サンダルを手に持ち、スカートをめくり上げ手で押さえながら、泥水の中を歩いてくるのが見えました。「どうして来たの?」と聞くと、「ホテルの近くの船着場まで船で来た。」と言うのでした。来るはずの車がなかなか来ず、彼女の判断でタクシーを使う事になりましたが後で会社が払ってくれるのか、心配になりました。川になった道路の真中を車が進むと波が左右に広がり、家並みにぶつかった波がまた戻ってくるという不思議な体験でした。河の氾濫は日常茶飯事の事らしく誰も騒いでいませんでした。空港に着き、時間があったので彼女とカフェーで話す事になりました。タイ旅行といえば大半が買春ツアーで毎日そんな日本人を沢山見ているはずで「日本人を軽蔑してるでしょう?」と聞くと「日本人は自分で働いてから遊ぼうとしているから、働きもせず、異母兄弟を沢山作るタイの男よりましです。タイ人とは結婚したくない。」と言うのでした。タイでは美しい女の子が一人いると稼ぎの良いホステスになり、両親から兄弟一族まで面倒を見るのが当たり前で「私もホステスに誘われた」と言うのでした。私は昨夜のクラブの女性にも何人ぶら下がっていたのか?と思いました。
 イミギュレーションに向かう時間が迫る頃には彼女が好意を持ってくれているのが判りました。私の姿が見えなくなるまで手を振る彼女を見て、ふしぎな罪悪感と満足感を同時に感じていました。
 この話には後日談があり、2年後家内と一緒に世界一のサービスを誇り、三島由紀夫氏やサマセットモームなどが愛した「オリエンタルホテル旧館」に泊る旅行に出掛けました。「Beeさんまだ旅行社にいるかな」と思いながら三島由紀夫氏の遺作「豊穣の海」第三巻「暁の寺」の題名にもなっている有名なワットアルン(暁の寺)に行った折、グループを引率するBeeさんを偶然見かけました。翌日オリエンタルホテルの部屋をマンゴスティーン二箱持参でBeeさんが訪ねて来ました。タイ人のボーイフレンドに送ってもらっているらしく「タイ人の男は嫌い」と言っていたのに「話が違うじゃないの」と思いながら食事に誘いましたが「こんな格好だから」とサンダルを指差し断られました。
 伊丹空港の植物検疫所でマンゴスティーンの蓋を開けると蟻がたくさん見えました。「まずい」と思いましたが蟻の有無に拘らず、「南国の果物はだめなんです。」と言われ、没収廃棄処分となりました。

(文責 井上 豊夫)
日付:2003.5.2 題名:SARS騒動
 他に話題がないのでしょうか、毎日「SARS」の話題で持ちきりです。重症急性呼吸器症候群(Severe Acute Respiratory Syndrome)が正式病名だそうですが中国語では「非典型肺炎(フェイディエンシンフェイイエン)」と言います。旧型肺炎での昨年度の死者は日本だけで8万人だそうで1日220人の方が毎日で亡くなっていることになりますがマスコミがこれを伝えることはありません。
 世界にはSARS以外に多くの伝染病があります。以前学生時代にインド旅行をした時には癩病(ハンセン病),象皮病、結核など病気の見本市のようでした。SARSは未だ治療法が見つかっていないので厄介ですが死亡率は4〜6%で罹っても直っている人のほうが圧倒的に多いのに悲観的に見る人の多いのに驚きます。
 4月24日〜27日まで中国に行きましたが入国審査前に体温検査があり耳の穴に電子体温計を突っ込まれました。広州交易会に参加した中国の取引先の担当者は上海に戻った途端、発熱も無いのに「広州にいた」というだけで10日間の隔離の為、療養所に連れていかれ家族とも会えない日々を送っています。今日の新聞によりますと「中国からの帰国者は10日間自宅待機」を日本政府は呼びかけています。中国にいたというだけで「ばい菌」扱いです。欧米人にとっては日本も中国も一緒で「来日中止」も出ているようで、「世界地図では日本と中国は僅か数センチしか離れていない」と言っているようです。
 SARS騒動が始まる前の「中国」は「過熱状態」でした。欧米より安全ということで増える一方の観光客と「バスに乗り遅れまいと中国に進出した日本企業」のビジネスマン達が大挙して押しかけ、中国便は満席状態が続き、上海のホテルは強気で値上げ一方でした。「過熱を冷ます良い機会を神が与えた」と考えればSARS騒動も悪くはないのかも知れません。取れ難かった国際線の予約が取り易くなり、予約なしでもホテルが空いてるのは仕事に行く者には好都合です。
 ミサイルや爆弾が飛んでこなくなって「寂しい思い」をしている危ない者好きのジャーナリスト達に一言。バグダットから北京に移動してSARS患者のいる病院に突入取材し、重症の人だけでなく軽症で済んだ人、直りつつある人にも取材し、増え続ける一方のような「間違った報道」を「冷静な報道」になるように努力すべきではありませんか?

(文責 井上 豊夫)


日付:2003.5.9 題名:男の時代の復活
 昼時に少し気の利いたレストランに行くと8割方が女性客である。温泉でも料理の美味しい所は大半が女性客で、パンフレットの写真にある「露天風呂」は女風呂に併設されているだけという所も多い。
「夕涼み よくぞ男に生まれけり」と昔は言ったようだが今は「よくぞ女に生まれけり」の時代で「女の時代」なのである。若い母親の大半は「女の子の出産」を希望する。
 来週には来年の「入社試験」を実施しますが大学での説明会に参加するのも会社訪問に訪れるのも圧倒的に女子が多く、たまに男子だと「今日は男だ!」と思うくらいです。海外に行って出会う日本人観光客の大半は「女性客」で若い世代の場合その割合はもっと高く、若い男は日本にいないのかと思います。国内外を問わず、入国審査の列が長い時には女性審査官の列に並ぶようにします。経験的にパソコンへの入力作業は女性審査官の方が早くて正確だからです。そう言う私も家では家内に、会社では女子社員に虐げられている一人ですが先日、畏友本田純一君の新居を見せてもらう機会がありました。本田君の話では作る前にモデルルームを100ヶ所以上見て回ったらしいのですが彼が気付いたことが二つあったそうです。
(1) 子供部屋は必ずあるのに「お父さんの部屋」がない。

(2) トイレに男子用の小便器がない。

彼が見た100ヶ所以上のモデルルームの中に一箇所の例外もなかったと本田君は言うのでした。
 手元に本が無いので正確さに欠けますが山本夏彦氏著「寄せては返す波の音」の中に「子供に個室を与えるのはよくない。勉強もせず、オナニーにふけるだけだ.。」と書かれていました。「小人閑居して不善をなす。」とは良く言ったものです。一番大切な「お父さんの部屋」は全く考えられもせず、ほとんどの場合削られてしまいます。
 男は立って「おしっこ」をするものなのに、幼い頃から「座って」若しくは立っても「こぼさないように気を遣って」用を足していては「大物」になることは無理な相談でしょう。
 本田邸では、お父さんの部屋はゴルフの素振り練習ができるほど広く、高く、当たり前のことですが子供の部屋の3倍はありました。勿論、トイレには立派な小便器があり、ちょっとやそっとではこぼれる心配はありませんでした。
「男の時代の復活」は「お父さんの部屋」と「小便器」から始まります。
(文責 井上 豊夫)
日付:2003.5.16 題名:山本夏彦論
 先週号で手元に本がなく、私のいい加減な記憶で書きましたので山本夏彦氏の「子供の個室は悪の温床」から正確に引用致します。
「さて子供部屋の反省である。子供部屋は必要か、そこにカギをかけるのはなぜか。三歳の童子にプライバシーはないのだ。一家だんらんなんてうそをつくな。子供の部屋に一々ノックなんぞするな。こどもが中学高校になってからでは遅い。幼いときから子供は家じゅうをかけずり回る、個室なんぞいらない、ひと時代前の私たちの家には、たとえ裕福でも個室なんかなかった。話し合いをしてはならない。中学高校になれば子はカギ付個室を要求する、カギをかけた密室のなかで子は何をするのか。ビデオがある、パソコンがある、終日オナニーにふける子がふえてもフシギはない。(後略)」
 「週刊新潮」の写真コラムの連載は1000回を超え、山本夏彦氏の評論は今年亡くなるまで続いた。西新宿の高層ビル群を見ると「これらのビルは保険外交員の生き血を吸ってできたものだ。」と書かれていたのを思い出します。
最近この連載をまとめた「寄せては返す波の音」を読みましたが最も印象に残ったのは次の部分でした。
「私は他人と交わって知るより自分を見て知ったのである。親友の幸運は一度は嬉しいが、二度三度かさなると嬉しくない、その友の悲運は気の毒だが見舞いにかけつける足はおのずと勇む。そのことを私は自分のなかに見たのである。他人のなかに見たのではない。私のコラムのたぐいはその観察の記録で、決して他をとがめているのではない。(後略)」
別のコラムでは
「だから友の喜びを何度でも心から喜べる友こそ真の友だとボナールは言っていると私は久しく絶版になっているボナールの『友情論』を中公文庫に推薦したら幸い聞くところとなって、いまは文庫中に納まっている。」
「深刻そうに顔をしかめたインテリ」を嫌った山本夏彦氏が昭和15年に埴谷雄高氏(本名 般若豊)とある経済雑誌で同僚だったというのも初めて知りました。埴谷雄高氏について詳しくありませんが正直に言えば私の本棚にもその代表作「死霊」が並んでいます。多分埴谷雄高を読んでいないと恥ずかしいみたいな雰囲気があり、読み始めて2ページくらいで難解過ぎる文章にギブアップした覚えがあります。同僚だった山本夏彦氏によれば「般若(埴谷氏)の言葉に何のオリジナリティも認められなかった。(中略)同僚だから言葉を交わさないではなかったが、会話は凡庸で陳腐でどこにもひらめきは感じられなかった。」
 来週はこの山本夏彦氏に「名人」と評価された「向田邦子」に触れたく思います。
(文責 井上 豊夫)
日付:2003.5.23 題名:向田邦子論 その1
 向田邦子さんが1981年8月22日台湾旅行中に飛行機事故で亡くなるまで彼女の読者でもファンでもありませんでした。何のきっかけで読者になったのかはっきりと思い出せませんが「父の詫び状」「眠る盃」「無名仮名人名簿」「思い出トランプ」「霊長類ヒト科動物図鑑」「夜中の薔薇」「男どき女どき」「女の人差し指」などを繰返し幾度も読んだように思います。
 余り本を読まない私にしては珍しいことでそれだけでも「向田邦子」が並の作家ではない事を証明しているようです。
 向田さんは生涯独身でしたが周りの多くの男たちを魅了する魅力の持ち主で彼女を評する人々は常に微熱を発しているように感じられます。
 雄鶏社という出版社での元同僚で翻訳家井上一夫氏が書かれた「黒衣の好きな映画記者」から
 「あるときバーで飲みながら彼女にいわれた。『そのレインコート、イタリア製でしょ?』『ああ,今日初おろしだよ』『そうだろうと思った、みっともない。男のレインコートはよれよれでしみぐらいついていなくては様にならないわよ。貸しなさい。』ピカピカの未だ折り目のついているレインコートをこちょこちょと変な形に丸めると、彼女はスツールにそれをのせて、どかんとその上に坐ってしまった。『しみまでつけるのはかわいそうだけど、こうしておけば少しは格好がつくわ』
 帰りに生あたたかいしわくちゃのレインコートを着たとき、私はハンフリーボガードになったような気がした。」
 文芸春秋臨時増刊「向田邦子ふたたび」の中で山本夏彦氏は次のように述べています。「深刻ぶったインテリは、戦争中は暗いことばかりで楽しいことはひとつもなかったと書くから,若者は信ずるほかない。しかし戦争中でも喜怒哀楽のあったこと平和の時とおなじで、さりげなく向田邦子はそのことを書いた。
 わたしは以前、彼女の書いたものは何度でも読むに耐える、そのつど新しい発見をするだろうと書いた。今回読み返して、はたして発見したのがこのことである。」
 向田邦子さんの書いたものを読んで私が感じることは、「政治的発言」「陸上競技やバレーボールを得意としていた彼女の自慢話」「亡くなってから家族も知った10年以上続いた家庭のある男性との秘められた恋愛話」が何処を探しても出てこないことです。凡人が話題にしたがるつまらないテーマを避け、極めて押さえて書かれた作品にこそ味わいがあることを向田邦子さんは教えてくれています。
(文責 井上 豊夫)
日付:2003.5.30 題名:向田邦子論 その2
 学生時代に某女子大の「理想的女性論」というレポートの代筆を頼まれ、「優」で単位をとったことがありましたが、その中で「美女」の条件の一つとして脚が速く、「50メートルを7秒以内に走れること」と書いた覚えがあります。向田さんはハードルの選手だったらしいのでこの条件は「クリア」です。若い頃から黒を好み「黒ちゃん」と呼ばれ、残された数多くの写真は水着も含めて黒がほとんどです。女優のように見事に撮られた写真の多くが恋人であったカメラマンによるものだったようです。
 保険会社の支店長だった父君の転勤で世田谷、宇都宮、目黒、鹿児島、高松、目黒、麻布、杉並と転居を繰返し、各地での思い出が彼女の随筆のいろんな所に現れています。両親が仙台、彼女が麻布の母親の実家から大学に通っていた頃の話で「学生アイス」という作品が印象に残っています。昭和23年の夏、アルバイトにアイスクリーム売りを始め、相棒の男子学生とコンビで大きな丸いジャーを持たされ、売り歩くのですが簡単には売れず、「売れるより溶ける方が早く、儲かるのは卸屋だけ」だった。景気のいい会社に売り込むことを思い付き、まず守衛さんにアイスクリームを進呈し、総務か庶務を紹介してもらい、部長に試食してもらい「昼休みの一時間、空いてるガレージで売りなさい」と言われ、社員が列を作るようになり、ほかのカップルの4〜5倍の売上を続けるが、やがてみんなが真似をするようになり、鉢合わせした男子学生同士が胸倉を取り合うようになり、作戦を変更しようと歩いていたら、信号無視でお巡りさんに連行される。お巡りさんから説教を受け、事情を話すと警察の独身寮を紹介してくれアイスクリームが売れる。そこで「屠殺場へ行ったかい、今、東京で一番金を持っているのはあの連中だよ」と言われ屠殺場へ向かう。「不思議な匂いと血だらけの上っぱりに始めはひるんだが、馴れてしまえばこころやさしいおにいさん達の集団であった。恥ずかしながら、我が生涯の中でこんなにモテたことはなかった。
『ネエちゃん、別嬪だな』といわれたのも初めてだったし、一緒に写真を撮ろうといわれたのも初めてであった。お茶はついで下さる、休んでいけと椅子を運んで下さるで、相棒の男の子がひがむほどであった。私もお返しにボタンをつけたり、キャッチボールのお相手をしたりした。毎日が楽しくて仕方なかった。ちょっとした気働きが収入につながる面白さは、月給取りの家に育った身には初めての経験だった。」祖母からのご注進でアルバイトを知った父から「即刻帰省せよ」と言われアイスクリーム売りは一ヶ月で幕となり、仙台へ行く汽車の中で前の席に坐ったW大の学生が一言もしゃべらず、水戸でアイスクリームを二つ買い、一つを黙って押してよこした。男はますます怒ったような顔になり、平駅で降りぎわに読みかけの雑誌を突き出すようにした。発車してから開くと中に紙片がはさまっていて、几帳面な字で住所と名前が書いてあった。さっきの切羽詰まった顔と手の震えはこれだったのかと判った。「私はこの紙片を随分長いこと定期入れの中にはさんで持っていた。」
(文責 井上 豊夫)
日付:2003.6.6 題名:スーパー陳さん
1986年の6月大連棒垂島賓館で開催された服装アクセサリー展示会の会場で女子社員の婚約者として紹介された青年が陳瑞春君でした。当時彼は北京農業科学院 の研究者で遺伝子組替えの仕事をしていました。理系最難関、清華大学に合格後、第一期国費留学生に選抜され来日し、金沢大学理学部化学科を卒業、 農業科学院の仕事に就いていました。初対面で忘れられないのは午前中にホテルの部屋から電話した大連市内の会社に夜再び電話しようとしたら、午前中に聞いただけの電話番号を完璧に覚えていたことです。彼の記憶力のレベルは今までに出会った『秀才達』と比べものにならないもので、こんなに覚えていては返って大変じゃないか、記憶の引出しがあるとすれば一杯になりはしないかと心配するくらいでした。
 本来は結婚後再来日し、大学院で「博士号」を取得するつもりだったのですが縁あって弊社で仕事をすることになりました。二男一女の子供にも恵まれ、幸せな家庭生活を送っていると思っていたのに6月2日未明に自宅マンションで急逝しました。目撃者も遺書もなく、事故なのか、そうでないのかはっきりしません。最近の言動を見ても死を予感させるものは何もなく、考えれば考えるほど分かり難くなります。いくら嘆いても、悔やんでも死者が還るわけではありません。
 入社後の彼との16年を振り還ると彼の存在が会社の中で大きかったことを感じます。何でもこなす「スーパー陳さん」であった御蔭で、「彼に頼り過ぎず、自力でやらなくては」と考え、通訳として使うことを極力避け、「繋ぎは陳、見込みは井上」で仕入れをやって来たのですが、2年前、十数名の新しい仕入れ担当者を指名し井上の仕入れはほとんど委譲され,陳の仕入れも一部影響を受けました。新しい仕入れ担当者はそれぞれ成長しつつあり、この2年間の成績は「すこぶる好調」に推移しています。井上の払った犠牲は経営者として「自ら決めたこと」であり、我慢するのが当然としても、彼が「やりがい」を感じ難くなっていたのかと悔やまれるのも事実です。私自身、彼の存在の御蔭で高いレベルで鍛えられたこの16年でした。「覆水盆に返らず」何を言っても空しい一週間でした。合掌
日付:2003.6.13 題名:脱資本主義のすすめ
 自然淘汰によって必要とされる企業が生き残り、発展して行き不必要となった企業が市場から「退場」していくことで資本主義の活性化が計られ、新たな企業の新規参入のエネルギー源にもなって来たと思いますが、最近の現状を見ていると大企業は危機に瀕しても取引銀行の債権放棄(借金の棒引き)や会社再生法申請で債務を帳消しにしたりして、縮小はするものの「ぬくぬくと生き残り」、再生法申請で資金回収ができなくなった中小企業の方が倒産し、消滅しています。
 大企業の経営者の多くは「サラリーマン重役」で個人保証をしていない場合が多く、会社が万一倒産しても個人資産にまで累が及ぶことはありません。一方、被害に遭った中小企業の経営者は否応無しに「個人保証」をさせられているので個人資産まで没収されてしまいます。
これが悲しい現代資本主義の現実です。
株主が出資し、その割合分だけの限定的責任を負うというのが「株式会社」の基本であり、会社の重要事項は「株主総会」で決定されることになっていますが、現実としては株主が重要事項を決定すると言う「ルール」自体を考え直すべきだと思います。大半の株主は会社の健全な成長を願っているわけではなく、株価の上昇により自己の利益のみを考えています。このような人々に会社の最重要事項の決定を委ねて良いものでしょうか?
 冷静に考えてみると創業時は別として、軌道に乗った企業にとって株主の出資した「資本金」はあまり有り難い物ではなくなります。現実には資本金の何倍もの借入金が会社を動かしており、昨今の金利情勢では「借入金」であれば年利0.6%以下の低コストで調達可能なのに「資本金」には最低でも年10%以上の配当が必要で極めて「高コスト」となっています。株主の何倍もの資金を出している金融機関に制度上は何ら会社経営に発言権がないのも不条理です。
 欲の塊のような株主に代わって、本当に企業活動に貢献している人々に最重要事項の決定に参加できる「脱資本主義」を提案したく思います。
本当に貢献していると思うのは次の方々です。

1. 融資している金融機関

2. 仕入先

3. 販売先

4. 社員

5. 経営者

このような本当に企業活動に貢献している人々、又はその代表に「貢献度」に応じてポイント化して投票権を与えるべきだと思っています。紙幅が尽きましたが御意見を御待ちします。

(文責 井上 豊夫)
日付:2003.6.20 題名:チップ
先週号で「脱資本主義のすすめ」を書かせてもらった所、
一読者から「その内容(見識レベル及び論旨の不一致)にあきれ果てました」
と批判を受け、反論する気にもなれないので「配信停止」を希望されました。
他の皆さんからの御意見を御待ちします。
訂正 : 先週号 「会社再生法」を「民事再生法」に訂正下さい。


明治維新以来、西欧崇拝が強かった我が国では西欧の習慣を全面的に受入れてきましたが唯一「チップ」だけは習慣として日本に根付くことはありませんでした。そのせいで「チップ」が必要な国に出掛けると朝から晩まで「チップ」のことで頭が一杯になったりします。
 以前ニューヨークで食事をした時に適当な小銭が足らず「約10%のチップ」で「少ないかな」と心配しながら支払った所、ウェイトレスに受け取りを「拒否」されたことがありました。
 私は毎週末、理髪店に行くのことを習慣にしています。毎週来る客なので親切にしてもらっています。最後に「マッサージ」のサービスがあり、時には「長時間」眠ってしまうくらいやってくれることもあり、これで「通常料金」では悪いと思い、「チップ」を払うことがありました。ところが「長時間」とは言えない「中途半端」な時間で終わることがあったりすると折角の「リラックスできる時間」が「チップを払うべきか払わざるべきか」と「悩める時間」になったりしました。「チップ」を受け取る方も最初は100%好意でしたことが「チップ」をもらうようになり「どこまでやるべきか」悩ませてしまうことになったと思います。「チップ付きスペシャルサービス」は程なく終了してしまいました。「チップ」の失敗例です。
 上海の虹橋空港に着き電話をすると空港近くの「エアーポートホテル」のマイクロバスがすぐに迎えにきてくれます。数分でホテルに着くのですが毎回「5元(約75円)」をさりげなく運転手に渡すことにしています。御蔭で運転手は私の姿を見つけると「笑顔で手を挙げてくれます。」車内でも運転手はいつも機嫌よくしてくれ、このチップは成功例だと思っています。
 尊敬する漫画家サトウサンペイ氏の名言の一つに「政治家に払う政治献金はチップみたいなもの」と言うのがあります。政治家も欧米のウェイターやウェイトレスと同じなのだと思えば良いのだと思います。今年の地方選挙の最中、某取引先より自民党への「政治献金」を依頼されましたが「アウンサンスーチーさんに出すお金ならあるけど自民党に出すお金はありません。」ときっぱり御断りした所、継続していた取引は中断されてしまいました。チップは本当に難しいものです。
 例外的に日本国内でチップが習慣的になっているのが温泉旅館です。現金を裸では悪い気がして、封筒や祝儀袋を探したり、何時渡そうかとタイミングを見たりすることは「相手の気持ちを考える序章」みたいなもので大切なことだと思います。未だ「チップ」を払う機会に恵まれない人は「是非トライ」してみて下さい。  
(文責 井上 豊夫)
日付:2003.6.27 題名:下級官僚に敵なし
1976年の春、「通産省へ電話するように」との伝言が東京支店から伝えられた。当時私は26歳、繊維商社の大阪支店勤務が漸く一年になる所でした。生糸だけが輸入制限品目で制約のなかった絹織物輸入の中国からの輸入急増に通商産業省は「規制」の方針を固め、突然「行政指導」を言い出しました。当時この繊維商社は友好商社として直接中国貿易をやりだして一年が経過した所でした。L/C(信用状)の開設も不慣れで銀行に言われるまま、成約できた契約分を全て一度開いていました。1975年秋の広州交易会で買った約3000万円の絹織物契約も「規制」の発表前に全て半年分L/Cを開いていました。
 L/Cというものは輸出者保護の立場から一度開くと有効期限が来るまで取消できないルールになっており、もし通産省の「行政指導」に従えば通関できずに代金だけ3000万円支払うことになり、会社にとっては最悪の結果になるので、何とか通産省に事情説明をする必要があり、何度か東京の通商産業省生活産業局綿貫班長のもとへ説明に行きました。班長というのは定年も近い、50台後半の人で、上司である課長はキャリア組と言われる若い人で班長の息子のようでした。将来の出世の道がある課長は大変愛想も良いのですがキャリアもなく定年も近い下級官僚である班長には「怖い者なし」のようで大変威張っていました。「規制」が発表される前にL/Cを半年先まで開いていた事、「行政指導」に従えば3000万円の商品が通関前在庫となり会社の資金を圧迫することになるので「特例」として認めて欲しいと強く要請しましたが全く聞いてはくれませんでした。金沢の本社に報告すると「通産政務次官をしている島崎均に頼みに行け」との指示がありました。元通産官僚で参議院議員の政治家でした。個人的には今も昔も政治家は嫌いなので嫌な気がしましたが菓子箱を持って参議院議員会館の部屋を訪ね、秘書に事情を話し解決出来るように依頼しました。その後上京し、綿貫班長に会うと以前に増して不機嫌そうな表情で「あんた先生に何か頼んだみたいね。そんなことしたって無駄だよ!」と言うのでした。末端の下級官僚にすれば出世も諦め、定年も近い自分の首は大臣であろうと政務次官であろうと切れるものではないので何も怖くないようでした。大臣に事務次官以外の人事権がないことは最近の田中真紀子元外務大臣の省内人事の「ドタバタ」を見ればご理解戴けると思います。
 「法律であれば悪法であっても従わなくてはいけないけど『行政指導』は法律ではないので必ず従う必要はないと思う。『行政指導』を無視して通関してしまうべきだ。」との私の意見が通り通関を始めた為、通産省から東京支店経由で電話があったのです。上京し「会社を守る為、如何なるペナルティーも覚悟の上、通関しました。」と言うと「全国130社の絹織物輸入業者の中で『行政指導』に従わなかったのは君の所だけだ。どうなっても知らんよ。」と綿貫班長はカンカンでした。一年後絹織物の輸入規制が正式にスタートしましたが『行政指導違反』に対する御咎めはありませんでした。二年後業界紙に綿貫班長の悪評高い蚕糸事業団への天下り人事が掲載されていました。

(文責 井上 豊夫)


日付:2003.7.4 題名:サイゴンの夜は更けて
 初めてベトナム、サイゴン(ホーチミン)に行ったのは1991年12月でした。輸入先が中国だけというのはカントリーリスクの面で問題があると考え、統計資料ではタオルの輸入先第二位のベトナムとの取引開始は自然な流れでした。
繊維公団の女の人の出迎えがあり、レックスホテルに案内されました。フランスの植民地時代の古いホテルでしたが趣があり、冷房の効いた部屋を出ると廊下は吹きさらしで、南国の暑い空気が押寄せて来ました。
 誰も友達がいないので部屋に入場券が置いてあったホテル内の「ダンシングホール」を覗いてみました。中はかなり暗く生バンドのステージ以外何も見えませんでした。システムが判らず「女の子はいらないか?」と女の人が聞きに来ましたが断りました。
暗闇の中で漸く眼が慣れてくると周りの席は皆カップルで一人でいるのは私だけでした。
 期待していた工場では一年先の1992年末まで「日商岩井」に売切っており「お前に売る物はない」と門前払いに近い形で終り、失意の内に二日目の夜も再び「ダンシングホール」へ行くことになりました。前日断った案内係に声を掛けると「Follow me !」と言われ、ついて行くと女の子がたくさん坐っており、灯りがつけられ選ぶように言われました。心では「そんなこと!」と思いながら指先はもう一人の女の子を指していました。
観光バスのように同じ方向に二人づつ坐るようになっていました彼女は名前をThuy(トイ)言い、昼は美容院で働き、夜はホールで働くので休む時間はほとんどないと言うのでした。
 吉行淳之介氏の名言に「もも,しり三年、むね八年」と言うのがあります。酒場で横に坐った女の子を無理なく自然に嫌がられず触るにはこれだけの修行が要るようですが修行不足の私は白いアオザイから伝わる美しく、優美なプロポーションがすぐ目の前にあるにも拘らず、月収が40ドルくらいという彼女に幾らチップを払うかを迷っていました。気持ちとしては100ドルでも良いと思ったのですが「そんな事をすると彼女をスポイルすることになる」のではないかと思い「10ドル」支払いました。中国ではお金をもらえばすぐいなくなるのが常識ですがThuyさんは「I am happy tonight.」と言って席を立とうとしないのでした。
翌朝4時起きでハノイに出発なので10時に清算を済ませたのですが結局11時の看板までいることになりました。
翌日行ったハノイのホテルは汚かった上に外出から戻るとベットの上に鼠が二匹走り回っており、甘美だったサイゴンの夜と彼女の白いアオザイを思い出しながら鼠を恐れて電気を消さずに眠りました。

(文責 井上 豊夫)
日付:2003.7.11 題名:サイゴンの夜はもっと更けて
初めてのサイゴン訪問から10年の歳月が流れた2001年、取引先を案内する機会がありました。1997年より取引が始まり、1998年の円安局面のお陰でシェアの拡大に成功し、ベトナムからのタオル輸入では日本でトップになっていました。
 ベトナムも変わったとはいえ,相変わらず社会主義国なので女の子とはナイトクラブの中だけの付き合いでそれ以上は無理ですと客には釘を刺しておいたのですが、どうも店の外で逢う約束ができたらしく「無理です」と言っても聞きそうにありませんでした。客だけ行かすわけにもいかないので、店が引けてから近くで待ち合わせました。客と二人でその場所に行くと一人のはずの女の子が二人いて一緒にタクシーに乗り込もうとするので丁重にお断りして三人である民家に着き、蛇腹のシャッターを開けてもらい入りました。
中は土間になっていて家人と女の子の話合いが終わると二階から若く美しい女の子が短めのネグリジェ姿で降りて来ました。入れ替るように客と連れの女の子が二階に上がり、一階にはネグリジェの子と私が残されました。冷房もなく、壁に据付けられた古びた扇風機が首を振る音だけが無意味に続いていました。予想していた怪しげな売春宿ではなく、眠っていた普通の民家をたたき起こしたお陰で妙な安心感がありました。まさかここに警察が踏み込んでくるとは思えませんでした。
首を振る扇風機の風が彼女に当たると短いネグリジェの裾が浮き上がり美しい彼女の脚が、かなりきわどい所まで見えてしまうのですが三度に1
度くらいしか手で押さえようとしないので目のやり場に困りました。
 少しだけ英語が通じるようなので仕事を聞くと「Teacher」と答えました。学校の先生が如何なる事情があるにせよ自分のベッドを見知らぬ男女に貸すなんてことが現実にあるのでした。学校の先生に認められているせいか妙な罪悪感もなく二階の用事が済むまで色々話しましたが扇風機の悪戯に気を取られ、あまり退屈せずに時間が過ぎていきました。何事もなく二階の二人も降りてきたので「今使ったのはこの子のベッドだったんですよ」と言うと「道理でベッドのまわりにぬいぐるみがたくさんあった」と客は答えました。無事ホテルに戻る事ができましたがベッドに入っても不思議な体験が頭をよぎりました。

(文責 井上 豊夫)


日付:2003.7.18 題名:ドキュメンタリー
1972年札幌オリンピックが開催され、その記録映画の総監督に選ばれた篠田正浩氏が語った言葉は今でも強く印象に残っています。「純粋な記録映画というものは存在しない。例え競技を実写したとしてもそこには撮る側の主観が入ってしまうし、演出が入ってしまう。純粋な記録映画を撮ることは不可能である。」この言葉は以来30年余りの間に幾度も思い出されました。ドキュメンタリーにしろ、新聞報道にしろ、撮り手側、書き手側の主観及び演出分を差し引いて受取るべきだと思います。今でも篠田正浩氏は最も尊敬できる日本の映画監督だと思っています。
 ドキュメンタリーとは無縁の日々を過ごしていましたが過日地方テレビ局よりドキュメンタリー番組の取材要請が弊社にありました。正月の新聞広告すら一切出さない主義なので社名が少し知られるようになったとしても「実益」はないと今でも思っていますが創立20周年の記念をビデオで残すのも一案かと思い了解しました。会社内での取材及びインタビューも既に済み、現地取材と称して中国青島にも7月7日〜10日まで行きました。SARS騒動も一段落し、空港での体温測定が残っているだけでビジネス客は元に戻りつつありました。ただ観光客はまだ戻ったとは言い難くもう少し時間がかかるようですが、弊社はSARSが騒がれていた4月,5月,6月も出張を続けていましたので「ほとんど影響はなかった」と言えます。
 取引先工場の責任者や担当者にもインタビューし、工場設備の撮影も行われました。55分番組で海外取引している会社を四社紹介するらしく一社当たり10分程度で、大した放送時間もないのであまり期待できません。弊社だけで一時間番組ができる程撮影したように思いますが、結局編集され「予想外の結果」で終わるのだろうと思いますが、例え自分達で編集したとしても五十歩百歩だと思います。
 全国ネットでもない上に企業の自己宣伝みたいな内容なので見で戴ける方はそう多くはないと思いますが万一ご覧戴くようであれば最初に申したように撮リ手側の主観と演出分を差し引いて見て戴ければ嬉しく思います。今週は大変ローカルな話題で申し訳ありませんでした。

放送日 2003年7月26日(土曜日)  時間  午後4:00〜4:55

番組名 「世界に挑む!いしかわブランド」

放送局 テレビ金沢(日本テレビ系列)

(文責 井上 豊夫)
日付:2003.7.25 題名:文化人類学的ストリートチルドレン論
7月26日(土) 4:00〜4:55pm の放送は先週お伝えした通りですが予告編的に7月25日(金)6:19pmからのテレビ金沢「ニュースプラスワン」の中でも弊社が紹介されるそうです。
土曜日の放送で紹介される弊社以外の会社は小松精練、三谷産業、ハチバンの3社で、2社が上場、1社が店頭公開しており、売上規模、社員数では弊社より大きいのですが直近の決算成績は弊社がトップとなっています。

 今月中国大連に行った時の事である。深夜11時過ぎにカラオケ店を出て近くに停めてある車まで四人で歩いていると花を持った女の子が猛烈にダッシュして来ました。いきなり私のズボンをきれいとは言えない両手で掴みました。私が無理と判ると連れの中国人に飛びつき片足にぶら下がり自分の両足を交差させ、彼の足首を挟みました。
 歩けなくなった彼は仕方なくお金を払いました。更に連れの女の子に飛びかかり、同じようにしがみつき10元(約150円)をもらいました。物売りにも最低限守るべきマナーがあるだろうと腹立たしく思いました。車に乗り込みお金をねだられた交差点を通り過ぎるとボスらしい女の人と(多分母親だと思う)女の子は話していました。

 以前ベトナム ホーチミン市に行った時の事である。定宿にしているMajestic Hotel はドンコイストリートに面したフランス植民地時代を偲ばせる独特の雰囲気を持ったホテルですが外に出ると必ず物売りの子供が追いかけてきます。ある時一人の少女は300メートル以上付いて来て、英語で語り掛け、ダメだと判ると日本語で「お兄さん、お兄さん!」と話し掛け必死で売ろうとしましたが、感心したのは決して体を触ろうとしないことでした。可愛い女の子でしたが最後に通りが尽きるところまでくると私の肘の上あたりを思いっきりつねりながら「オカマ!」と私を罵倒して走り去りましたが少しも腹立たしく感じませんでした。女の子につねられて喜んでいては「マゾヒスト」と言われそうですがベトナムの物売りの子供に腹が立った事は一度もありません。「衣食足って礼節を知る」という諺があります。中国が今よりもっと貧しかった頃、きっと将来衣食が足りたら中国人のマナーも良くなると思っていましたがベトナムの物売りや乞食を見ていると「衣食足らずとも礼節を知る」ように感じます。貧しさの中でも忘れない「品挌」こそ本物なのだと思います。最近の日本人の中には「衣食足りながら礼節を知らず」が多いようで弊社を囲むアカシヤの林には弁当の箱やペットボトルが平気で捨てられています。

 慈善として寄付をするというのは一種の偽善であると思ってきましたが、今年創立20周年を迎えたのでパーティーをする替わりにベトナムの学校に奨学金として寄付を申し出た所、その内少しでもストリートチルドレンの援助団体にも寄付して欲しいとの依頼があり、半分を奨学金、残りをストリートチルドレンの援助団体に寄付しました。使途については一任しましたが奨学金は「重光基金」として元金を残し、金利だけで毎年50人ほどの学資の一部になるようです。ストリートチルドレンの方は下手な援助が「品格」のある彼等を却ってスポイルすることないことを祈るばかりです。

(文責 井上 豊夫)
日付:2003.8.1 題名:18歳結婚のすすめ
12歳の少年が幼児を殺害したり、小学6年生の女の子が掃除やパンツを売ったりしてお金をもらい、調子に乗って監禁され大騒ぎになったりしています。少年法では14歳未満の犯罪は少年鑑別所に送られることすらなく、特に保護されています。被害者より容疑者の人権の方が重視され,必ず「人権派弁護士」が登場します。
 果して子供に人権があるのでしょうか?子供が大人になることを「成人」と言います。漢文風に返り点を打てば「人と成る」わけです。成人する前の子供は「人」ではないので「人権」はないというのが私の意見です。子供に「人権」はないので代りに「少年法」で強く保護されいるのだと思います。「人権」の代りに「少年法」があると考えるべきです。もし子供に「人権」があると主張されるなら未成年であっても容疑者の実名と顔写真も公表されるべきでしょう。「権利」と「責任」は表裏一体のものであるべきです。社会人として「納税」の責任を果たしている人にだけ「権利」としての「選挙権」を与えるべきだと私は考えます。
 「責任」を果たさず「権利」だけを主張する勝手な人々が多くなっていることに驚かされます。最近発表された「国民年金」の未納者は37%になり、事実上崩壊状態です。給与所得者の「厚生年金」は企業が代行して源泉しているので「未納」はあり得ませんが自主的に支払う方は三分の一以上の人が払っていません。将来年金を当てにするかどうかも含めて「選択肢」のある社会の方が私は良いと思っているので「国民年金」を払わない人々が将来「年金」を放棄するのであればそれで良いと思います。けれどきっとこれらの人々は将来「年金」を受給できる時が来ると「何故私だけもらえないの?」と言い出しそうです。
 街には20歳台のフリーターと称する失業者が溢れ、その多くが親に寄生しており、何の能力もないのに「自分の能力を生かせる仕事が見つかるまで「妥協したくない」とか言っています。女の子の場合はなんとなく結婚せず30歳近くなって「結婚でもするか?」というケースが多いと思います。この拙文の読者は北海道から九州,米国,中国、ベトナムと広範囲ですが多分残念ながら17〜18歳の女の子はいないと思うので圧倒的に不利ですが女の子が最も美しいのは17〜18歳だと思います。最も魅力的な時代を受験勉強でエネルギーを浪費せず、結婚し出産する方が自然ではないでしょうか?もし本当に大学で勉強したければ25歳で入学すれば子供も小学生となっており、小学校から全寮制の学校が日本にも増えると思います。今中国で羨望の的になっているいわゆる「貴族学校」は全寮制です。本来出産、育児に使っていた「女性」の「凄いエネルギー」を受験に使えば「男子」はかなうわけがないと思います。以上批判される事を覚悟の上で意見を述べさせてもらいました。

(文責 井上 豊夫)




日付:2003.8.8 題名:反論 18歳結婚のすすめ
小職の主張を認めて戴いた御意見は大歓迎ですが、完全に否定した意見でも凄く好感がもてる場合もあることを実感しました。
先週のテーマに対しいくつか意見を戴きました。好意的なものもあれば100%否定的なものもありました。

米国デンバー在住A氏

「早婚のすすめ同感です。

私の自慢の一つに娘が20歳で結婚して

26歳で5歳と4歳の女児を育てながら

今秋にはもう一人生む予定です。

三人目が六歳になったら、姉たちが十歳を越えていますから、

私と姉妹が末っ子を数時間でも守れます。

そして、娘は三十歳でも大学に行くという夢を持っています。(後略)」



東京在住K子さん

「意見します。18歳結婚?!そんな若い年齢で、一生の伴侶を決めるのは

かなりのリスクです。現代日本女性は男よりヴィトンやコーチ、グッチが

お好き、なんせ現代日本男子は俺についてこい的な事もなく、まあ適当に

がんばろうぜぃ。(こういう人はまだいいが、)トリアエズおまかせ。みたい

な人が多いのに結婚!?社長その意見はかなりいきすぎですよ。私の周りは。

早く結婚した女性はすくないけど、早くした人、8割離婚ですよ。マジで、

籍はあるけど別居中とか、団塊ジュニア以下はかなり複雑。18歳綺麗?

ふざけんじゃね〜! ! (苦笑) 美人に年齢は関係なし!! いつでも無償の

愛と情熱がある人はみな綺麗なのです。(後略)」



K子さんの意見は現実を突いているので拍手を送られている方は少なくないのではないかと思います。

北朝鮮拉致被害者の家族会代表横田滋さんの孫、横田めぐみさんの娘とされるキムヘギョンさんのインタビューをご覧になった方なら理解戴けるかと思いますが14歳でテレビのインタビューに堂々と答えていたのがとても印象的でした。思想的に好きとか嫌いとかの問題を抜きにして今の日本の子供と比べると問題にならないくらいしっかりしていたし、親離れし自立して見えました。中国人の若者を見ていても良きにつけ、悪しきにつけ自我の確立と自立を感じます。現代日本には「親離れできない子供」「子離れできない親達」がゴロゴロしています。そんな連中が18歳で結婚すればK子さんのいわれる通りだと思います。例え35歳で結婚しても同じだと思いますが。自立できない、自立しない「教育」が戦後続き、戦後教育を受けた人が親となり、今その子供、団塊ジュニアが親になりつつあります。

(文責 井上 豊夫)
日付:2003.8.22 題名:政党のあるべき姿
    マイクロファイバークロス(平織)独占販売権を獲得!

最近、眼鏡拭き用途以外に洗顔用としても注目されていますマイクロファイバークロスの乱売防止の為に中国の製造メーカーから「独占販売権」を得ることに成功なりました。今後、洗顔用で販売される方は弊社にて準備致しました「使用方法及び注意書」をご理解戴いた上で宜しく販売下さいますようお願いします。

小泉首相が自由民主党の総裁に再選されるかどうかが話題になっています。分裂と新党旗揚げを繰返している政党が多い中で党名を変えずに来たのは「自民党と日本共産党」だけでまともな政党はこの二党だけなのか?と思ってしまいます。
 本来政党とは同じ基本理念の同志の集合体であるべきであり、単独政権時代にも海外報道機関の記者から「それ自体連合政権に等しい」と言われたくらい色んな考え方の人々が集まっているのが「自民党」の特色であり、憲法改正論者もいれば護憲論者もいるのが現状であり、理想的政党は残る「日本共産党」だけということになりそうです。
 「改革」を叫び2年半、小泉さんは頑張ったのでしょうが身内であるべき自分の所属する政党に邪魔され、思うように「改革」を進められなかった点は同情に値します。歴代の首相で2年半経った時点で40%以上の支持率を得たのは小泉純一郎氏以外に過去なかったことは間違いありません。
 前任の郷土の恥「森喜朗氏」の支持率が8%だったのはまだご記憶にあると思います。
小泉さんが近日中に出す「公約」の中身は知りませんが妥協に妥協を重ねたものでなく、わがままなまでに自説を「公約」にしてもらいたいと思うし、その「公約」に納得できない人には他の政党に行ってもらうべきだと思います。小泉さんが御気に召さないらしい野中広務氏の言動を見ていると「過去の戦争に対する贖罪意識が強く、北朝鮮に同情的で憲法改正に反対」土井たか子さんとどこが違うのかと思います。
 野中氏や土井さんのような考え方の存在を否定するものではありませんが小泉さんと同じ政党にいるのはおかしいと思います。早く土井さんと一緒に政党を作るべきだと思います。小泉さんの「公約」に納得出来る人だけを自民党の公認候補として総選挙で国民に「信を問う」べきだと思います。そうすれば選挙権を得てから34年間一度も権利を行使しなかった小生も選挙に行こうかと思います。「改革による小さな政府、憲法改正、靖国神社公式参拝」この三つが公約に入ればですが・・・

(文責 井上 豊夫)
日付:2003.8.29 題名:未だ法廷に立てず
今日は松島久美さんの一周忌です。暑かった去年の夏と共に逝った彼女の顔が眼に浮かびます。

 短い人生であります。法律を専攻した者として一生に一度は法廷に立ち、出来れば被告ではなく原告として巨悪と戦いたい、その巨悪が国」であれば最高だと常々思っていました。
 今年6月博多で通関した商品の関税が申請した税番ではなく、関税の高い税番が適用になるとの報告が通関業者からありました。初めての商品でなく数年前より10回以上通関実績があったので突然の「変更」は全く意外で、今回のみならず「過去5回分に遡って修正申告しろ」との命令を受けました。初めてこの商品を始める時に見本を税関に提出し関税の確認を取ったのですが数年前のことで資料が残っていませんでした。商品の内容、国内加工工程が多岐にわたる事などを考慮すれば税関の主張する「製品の税番適用」は到底承服できるものではありませんでした。通関業者に当方の主張を書面で送り、得意先の協力も得て見本も再提出して反論しました。通関業者には「徹底的に戦います。仮に裁判に持ち込んでも白黒をつけたいので木っ端役人どもにその旨伝えてくれ」と強く申し入れたのですが「お役所仕事」の典型で5分で結論の出る事を2ヶ月以上も返事がありませんでした。何度も問い合わせたのですが博多から門司に移り、門司でも結論が出せず東京まで回されました。かねてからの夢であった「国」を相手に原告として裁判を起こし、法廷に立つことが実現する絶好のチャンスだと思いました。弁護士を雇うとすれば誰が良いか、それともこんな単純な案件なので弁護士を使わず自分で弁護してしまおうかと夢は広がりました。
8月25日税関業務部首席関税鑑査官よりこちらの主張通りの税番が適用されるとの回答書が届きました。余計に取った関税は返還されるようですが2ヶ月も待たせた事、税関側の判断ミスだった事について一言の詫びもありませんでした。法廷での勝利を夢見ていたのでこのような形の勝利は不完全燃焼でした。勿論、費用対効果などと言うけちな考え方をすれば裁判すれば得られる利益より裁判費用の方が高くつく事は明らかですが戦うべき時は「費用対効果」など無視すべきだと思います。
 以前、原告ではなく被告として訴えられそうになった事が2度ありました。1996年3月京都西川の弁護士から内容証明が届きました。訴えの内容は当時やっていた綿毛布のプリント柄が京都西川の柄コピーであり不正競争防止法2条第3号に違反するので販売を止め、今までに扱った数量を報告せよとのことでした。日頃内容証明などもらい慣れていないので一瞬驚きましたが「不正競争防止法」を読むと確かに柄の模倣も処罰対象になっていました。有名ブランド柄でなく未登録の柄でも模倣は対象になることは未だに十分繊維業界で認識されていません。紙幅が尽きましたので来週に続きます。
(文責 井上 豊夫)
日付:2003.9.5 題名:未だ法廷に立てず その2
(先週号の続き)
内容証明の手紙を受取ったので弁護士に相談しないで「不正競争防止法」を読んでみました。全文で14条しかない短いものでしたが京都西川の代理人弁護士の言う第2条第3号を読んだ時には「もうダメだ」と思いました。けれど第11条の「適用除外」第5号「模倣した商品であることを知らず、かつ、知らないことにつき重大な過失がない者」を読んだ時には救われた思いがしました。弁護士への手紙には中国で柄を選んだ時の経緯,即ち多くの柄の中で中国側が使っても良いと限定した柄の中から選定したこと、を説明し、商品に縫い付けてある「綿毛布」という文字がプリントされているラベルには弊社の組合登録ナンバーも印字されており、輸入者が容易に特定でき、万一知っていて柄を盗用したなら「そんなドジなこと」をするはずがなく、今回のケースは「適用除外」に当たると主張しました。
けれども「ただ業界の大先輩である京都西川さんの立場に立って考えると腹立たしい気持ちは十分理解できるのでいつでも京都へ説明に来いとおっしゃるなら参ります。」とも付け加えました。
 京都の桜が散り始める頃に弁護士から京都に出て来いとの依頼があり私は一人で京都烏丸法律事務所を訪ねました。小野誠之弁護士、弁理士、京都西川の常務、貿易部長の四人が待っているところに一人だけで現れたので驚いたようでした。既に手紙のやり取りは数回あったのですが「今までの手紙は全部私一人で書きました。金沢には小野さんみたいな優秀な弁護士がいないもんですから」と言うと「本当にあなた一人で書かれたのですか?」と弁理士が言いました。手紙に書いたことを改めて主張し今後もこの柄の使用を要求しましたが「今の在庫の販売も認めるので更にこの柄を輸入するのだけは止めて欲しい。」との先方の要求を渋々呑む形で決着しました。決着後小野弁護士は小松の○○さん、金沢の××さんと親しい弁護士の名前を挙げました。後で金沢の弁護士に聞いたら二人とも左翼系共産党系の弁護士でした。多分この小野弁護士も左翼系弁護士のようでした。左翼系弁護士が企業の弁護をするというのも奇異なものを感じますが変に体制派の弁護士より左翼系のほうが頼りになると企業は考えているのだと思います。田中角栄氏の弁護団に新左翼系女性弁護士がいたのも事実ですし、オウムに殺害された坂本堤弁護士も左翼系弁護士で神奈川県警と頻繁に揉めており行方不明になった時に県警側に「ざまぁみろ」という気持ちがあったのは事実です。
 帰り際に小野弁護士から今日の合意事項を文章にしても良いかと言われ「いいですよ」と言うと後日京都京都西川に有利な書面が弁護士から送られてきたので全面的に書きなおして送り返しました。2〜3度やり取りしたのですがこちらの主張した「字句」に同意しないので「私は商人(あきんど)です。商人は書面があろうとなかろうと約束は守ります。もう文章にするのはよしましょう。」と最後通告をしました。結局弁護士はこちらの主張通りに書き改めました。「弁護士は合意事項を書面にしないと依頼人からお金をもらえない」と後日他の弁護士が教えてくれました。(つづく)
(文責 井上 豊夫)
日付:2003.9.12 題名:未だ法廷に立てず その3
 京都西川事件で危うく被告席に着きそうになりましたが何とか切りぬけ御蔭で「不正競争防止法」だけは弁護士いらずになりました。
 折角理解したので逆に使う機会がないかと思っていた矢先に販売担当の張大明君(現在は会社を離れ、米国ペンシルベニア州立大MBAコースの学生)から「長野の特意先に名古屋のタオル問屋から重光商事のオリジナル柄に酷似したプリントのタオルが紹介されている」との報告を受けました。
 彼の持ち帰った見本を見ると如何見ても我々の柄を見て作ったとしか考えられないものでした。名古屋の問屋の名前も判ったので「喧嘩はこうしてするんだよ」と偉そうに名古屋の老舗問屋の社長宛てに抗議の手紙を書き、「貴社の柄は弊社の模倣であり不正競争防止法第2条第3号に違反するので、どれだけ作って、どれだけ販売し、在庫はどれだけ持っているか報告するように要求しました。」
 今度はこちらが攻めるケースなので返事が楽しみでした。毎日返事を待ちながら、きっと困っているだろうと勝手に想像していました。一週間後に弁護士から来た返事は予想外のものでした。
「貴社ご指摘柄のタオルは一切製造販売していない。弊社取扱い品と指摘されたのは重大な悪意に充ちたものと考えられます。場合によっては「信用毀損罪に該当する可能性もあります。」
 再度担当者を呼び「本当に名古屋の会社のものなのか」再度調査するように言いました。その返事は「何処とは言えないが名古屋の会社のものではない」と長野の得意先が言ったというものでした。慌てて平身低頭でお詫びの手紙を書きひたすら謝りました。名古屋へお詫びに出掛けることも含めて思いつく限りのお詫びをしましたが弁護士からの返事はまたして予想外のものでした。
「第一信の内容につき全くの虚偽であることは明確となりました。身に覚えのない警告文書を一方的に送付され、筆舌に尽くし難い精神的苦痛を受けた。慰謝料として金300万円の支払いを強く求めます。本書到着後5日以内に当職の左記口座に振込みされることを求めます。」
 ひたすら詫びているのに慰謝料300万円の要求は意外でした。他人のミスに付け込んで金銭を要求するなんて恐喝罪に近いと思いました。もし同じ事を「ヤクザ」がしたら犯罪となるのではないかと思いました。弁護士の中には立派な方もいらっしゃると思いますが「ヤクザ」と変らない連中がいることが判りました。
 最後の返信「必要とあれば貴社へ参上し、直接お詫び申上げる所存であります。しかし貴信に言われるような慰謝料の支払い要求については小生の常識をこえるものであり、応じかねます。」以後弁護士からの連絡はなく、被告として法廷に立つ機会は又して消え去りましたが一年半後その名古屋の老舗問屋は倒産しました。
(文責 井上 豊夫)
日付:2003.9.19 題名:北欧の旅, その1
 上海に未だ高速道路がなかった時代には列車での移動が中心でした。不便だった代りにさまざまな出会いもありました。1990年頃、南京から上海に向かう列車でノルウェーの女子大生二人と一緒になったことがありました。穴のあいた汚いジーンズを穿いた彼女達はノルウェー人でしたが人口450万人のノルウェーには大学がなくデンマークのコペンハーゲンの大学に通っており、一年休学して二人で世界一周の旅の途中で中国に来ていたのでした。上海に着くと彼女達は市内バスでホテルに行く予定でしたが私のタクシーに同乗させ「浦江ホテル」まで送りました。彼女達が持っていた英語版「地球の歩き方」風の本には上海の安いホテルが紹介されており、ガーデンブリッジわきの「浦江ホテル」は知らない客同士の相部屋というのがあり凄く安く泊れるのでした。その夜食事をすることになり汚いジーンズのままだと嫌だなぁと思いながら迎えに行くとちゃんとスカートに着替えて階段を降りてきました。
 錦江飯店の11階で中華料理をご馳走したら「中国に着いて一週間になるけど今までにこんな美味しいものは一度もなかった。香港に行ったら『マクドナルド』を食べるのを楽しみに日々過ごしていた。」と言うのでした。食事の後和平飯店のジャズバー「上海オールドボーイズ」を聴きに行きました。落語界の天才「立川談志」氏が仲間4〜5人と来ており金髪の女の子を二人連れているこちらを盛んに見るのでしたが相手にしませんでした。
 彼女達と別れて帰国後も旅先から何度か手紙が届きました。手紙の末尾には必ず「xxx」のマークがあり、何だろうと思っていましたが「キス」の代りと判りました。コペンハーゲンに戻っても便りは続きました。1992年家内と欧州旅行に行った折、一人と会いました。会うまで家内は「あなたなんか通行人みたいものでしょ?」とバカにしていましたが180cm近いブロンドの美女が現れ、お土産までくれたので驚いていました。「xxx」マークの便りも途絶え、彼女達も30歳を越えたはずと思いながら遅めの夏休み旅行先に「ノルウェー」を選びました。いつもながらの急な思い付きで一週間前からウェブサイトを利用して予約を入れました。「貧乏自慢旅行」は学生時代の「インド旅行」や「国内ヒッチハイク旅行」で十分したつもりなので50歳過ぎたら「贅沢旅行」をすべきと思います。ホテルの選び方は先ずその土地の一番価格の高い所を探し、その中で部屋数の最も少ない所にします。世界の一流ホテルは高くとも七階までです。ロンドンのサボイ、パリのリッツ、ローマのハスラーヴィラメディチみんな七階までで、高層ホテルは所詮二流止まりだと思っています。(つづく)
日付:2003.9.26 題名:北欧の旅 その2
 スカンジナビア半島の外側がノルウェーです。首都オスロはその南に位置しており、最初は北の先っぽへ行けば行くほど美しいのではないかと思ったのですが本で調べると「フィヨルド」と呼ばれる氷河が作った景勝はオスロの西方面に広がっていました。レンタカーで好きな所を回ろうと国際免許証も準備しましたが、あまり道路が良くなさそうなので「列車の旅」に変更しました。オスロー----ミュルダール----フロム==グドヴァンゲン>>>ヴォス---ベルゲン----オスロ(----は列車、==は船、>>>はバス での移動)が今回のルートでした。首都オスロではグランドホテルに泊りました。旅の本では「ノーベル平和賞受賞者が宿泊する」となっていたので少し期待しましたがあまりお奨めではありませんでした。
 オスロの中心、カールヨハン通り沿いのレストランから通りを眺めて感じたことは黒人が見当たらないことでした。今回ノルウェーの前後に寄ったベルギーやオランダではかなりの割合で黒人を見かけました。欧米の他の国だってかなりの割合で黒人がいます。ニューヨークでもパリでもこんなに白人ばかり見かけることはないと思います。アフリカに植民地を持っていた欧州の旧宗主国、奴隷を買求めた米国に黒人が多いのは搾取し続けた報いであり、ノルウェーは植民地を持たなかったので黒人が少ないのだと思いました。
 オスローの中心、カールヨハン通りで陽光の中、美しい金髪や銀髪をなびかせて180cm近い娘達がさっそうと歩く様子を見て「美しい」と思いました。今、日本でも染めた茶髪は多いけれど「本物は違う」と思いました。誤解を恐れずに言えば「白人ばかりの方が美しく感じました」人種差別主義者の気持ちが少し理解できそうに思いました。
 ノルウェーは王国ですが福祉国家としても有名でその代わり大変物価が高く、水が一本300円、500メートル程の距離をタクシーに乗って1000円、サンドウィッチが700円「日本のタクシーは世界一高い」と言えなくなりそうです。
 フィヨルド巡りは氷河から流れる水があちこちで滝となって海に注ぎ込み、グドヴァンゲンで泊った船着場近くの平屋のホテルの天井がガラス張りになっており、ベッドから滝を観賞できました。
 今回実現できなかったオーロラ観賞をするにはもっと北に行く必要があるらしく、NHKの放送によるとスウェーデンのアビスコあたりが最も適地のようです。次回機会があればアビスコツアーを計画したく思います。北欧と言えませんが最後に寄ったオランダ アムステルダムでは旧教会という大きな教会のすぐ隣に公娼「飾り窓」が立ち並び下着姿の女性が立っているのがガラス越しに見えるのでした。家内同伴の旅だった為、インサイドレポートは出来ませんでしたが黒人女性が多いのが目立ちました。
(文責 井上 豊夫)
日付:2003.10.3 題名:林則徐 高杉晋作 安倍晋三
 以前、小泉メールマガジン第24号2001.11.29の編集後記に安倍晋三氏が書いた文章を取り上げたことがありました。再録します。
 「先週この欄で取り上げた吉田松蔭が処刑されたのは旧暦で10月27日、新暦でいえば11月25日です。この日を選んだかどうかは議論のあるところですが、同じ日に三島由紀夫が市ヶ谷の陸上自衛隊駐屯地で自決しました。彼はその年の7月7日付け産経新聞に『私の中の25年』という論文を寄せ、将来の日本の姿を次の様に予言しています。『無機質なからっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目のない、或る経済大国が極東の一角に残るであろう。』31年経った今、この予言があたったかどうかではなく、21世紀の日本をどうするか議論して行きたいと思います。」
 目先の利く政治家であれば「三島由紀夫」をまともに取り上げることは避けたと思います。「右翼」のレッテルは「政治家としての死」に繋がり兼ねないのに「三島由紀夫」をまともに取り上げた安倍氏の活躍を祈っていたら、自民党の幹事長就任のニュースが入ってきました。八方美人になることなく彼が自分の信じる道を邁進して欲しいと思います。その結果、首相になれなくてもいいじゃないですか!
 安倍晋三氏は山口県、長州出身で父、晋太郎氏(故人)と共に、長州の英雄高杉晋作から「晋」の字を継いだものと思われます。高杉晋作で最も凄いと思うのは彼が24歳だった1862年(文久2年)5月上海に行き、南京路で英国人に牛馬のごとく中国人が扱われている現実を見て「欧米の狙いは植民地化にあり、日本を中国のようにしてはならない!」と強く尊王攘夷を決意したことです。7月に帰国した高杉晋作は同年12月在日英国領事館焼き討ちを実行します。29歳で高杉晋作はその生涯を終えますが、その倍近く生きながら何も出来ていないわが身の不甲斐なさが身に沁みます。
 「日本を植民地化してはならない」と明治維新の志士たちのバイブルになったのが中国のアヘン戦争後に中国の林則徐が残した資料を基に魏源によって書かれた「海国図志」の翻訳本でした。中国から「茶や絹織物」を輸入するばかりで輸出するものがなかった英国が同じく英国植民地だったインドのアヘンを中国に「茶や絹織物」の代金代わりにアヘンを輸出し、中毒者が増加すると大量の銀が中国から英国に流失し、中国は疲弊、清朝皇帝に全権を委任された林則徐はアヘンの輸入を禁止し、一度は成功しますが英国は林則徐が守る広東を避け、定海や天津を攻め、裏切った皇帝に林則徐は罷免され、中国は英国の半植民地になります。アヘン戦争における英国の侵略的行為が書かれた「海国図志」の翻訳を読んだ明治維新の志士たちのお陰で日本の独立は保たれたのでした。
 林則徐、高杉晋作の両英雄に並ぶ人物に安倍晋三氏がなってくれる事を祈らずにはいられません。けれども結局は首相の座を意識し「愚直さ」を忘れ「妥協」の道を選ぶのでしょうか?彼に黒田官兵衛の言葉を贈ります。「人に媚びず、富裕を望まず」
(文責 井上 豊夫)
日付:2003.10.10 題名:北京の夜明け
決算御礼
9月30日にて弊社第21期決算を無事迎える事が出来ました。
偏に皆様のお陰と感謝申上げます。今期の売上は前期比5%減の26億3千万円、予想利益は少し増加した模様です。
今期も変わらず御引き立てをお願い致します。

訂正 : 先週号 最終行 「富裕」を取消、「人に媚びず、富貴を望まず」と
    訂正下さい。

 1979年2月、29歳の冬、氷点下の北京を客と訪れました。
文化大革命が漸く終結し、「開放政策」なるものが始まろうとしていました。1977年に初めて北京を訪れた時に比べて一番変わったことと言えば「舞会(ウーホエ)」と中国語で言われるダンスパーティーが始まったことでした。文革中の中国では西洋音楽は全て禁止で北京にいる外国人が集まる「国際倶楽部」でベートーベンのレコードが流れたことが日本では新聞報道されるくらいでしたからダンスパーティーなど「夢のまた夢」でした。それが許されたのですから堰を切ったように社交ダンスは流行となり街角でも練習をする人が見られました。パーティーは主にホテルで開催され当時のホテルは中国人の出入りが制限されていたので外国人に誘われてパーティーに参加したがる女の子たちが外に集まっていました。友誼賓館というホテルでの用事を済ませるとダンスパーティーをしていました。美しい白人の女性が中国人のダンスに慣れていない男たちの手を取って教えていました。中国人が多い中で彼女の周りだけが輝いて見えました。日頃から偉そうな事ばかり言っている私に客は言いました。「あの娘を誘ってみなさい。」ここで怯んでは仕事にも差し支えると思い、連れの白人の男たちの反応を気にしながら彼女が座っている所へ行き、「Shall we dance?」と言いました。意外な事に連れの男たちは「You are lucky !」と彼女を大声で祝福してくれたのでした。曲がワルツになるまで踊り続けました。踊り終えて客の所に戻ると「見直した」と客は誉めてくれ「まさか本当に行くとは思わなかった」と言うのでした。
 帰国の前日、週に一度だけ開かれる「民族文化宮の舞会」に参加しました。10元の入場料を払い中に入ると外国人より中国人の方が多く、盛況でした。黒髪の美しい女の子と踊りました。フランスからの留学生で「中国で楽しいことがある?」と言うので「あるよ」と答えると否定的な表情を浮かべました。深夜1時過ぎ外に出ると長安街は砂糖をまぶしたように薄っすらと白く輝いて見えました。タクシーに乗ると氷点下の乾いた雪がフロントガラス越しに美しく見えました。黒髪の少女の感触と美しい長安街の光景は今でも目に浮かびます。
 翌日北京空港で偶然目にした新聞で中国とベトナムの間で戦争が始まったことを知りました。まだホテルにもテレビがない時代でした。南方で戦争をしてるというのに北京ではダンスパーチィーで親しくなった中国人の女の子と外国人の間で問題が起きた事が鄭小平の耳に入り「激怒した」と噂されていました。
 今振り返ると混乱しながら確実に「北京の夜明け」は始まっていました。
(文責 井上 豊夫)

日付:2003.10.17 題名:壊したのは誰?
 10月11日より中国に来ており、この原稿は上海から広州に向かう飛行機の中で書いています。上海は来る度に自動車が増え、あんなに快適だった「高架(ガオジャー)」とよばれる自動車専用道路は東京の首都高速よりひどい渋滞になっています。2〜3年後の上海の交通を考えると暗い気持ちになります。

 「大量破壊兵器を持っている」との理由で何倍も大量破壊兵器を持っている米国と英国が中心となってイラク中を破壊し、攻め落とし戦後復興と称して日本を含む各国に協力を求めているようです。第一次湾岸戦争の時には、日本は何もしなかったので90億ドル(1兆円強)の戦費を負担させられた挙句に、クウェート政府の感謝新聞広告には名前すら載りませんでした。今回の戦争の理由となった大量破壊兵器は未だ見つからず、この戦争の大義自体が疑問視されているのに水面下の交渉が進んでいるようです。一説には50億ドル(6000億円)という声もあるようですが前回より安いのはインド洋上で自衛隊が米英の艦船に無料ガソリンスタンドサービスをやったり、近い将来イラクに自衛隊員を出すと言っている分だけ安くなったのでしょうか?
 当り前のことですが、イラクを壊したのは米国と英国なのでその理由とした大量破壊兵器が見つからない現状では「壊した者が直す」のは世界の道理ではありませんか?日本の回答としたら「大量破壊兵器が見つかったら喜んで御支払いします」で良いのではありませんか?
 最近旧日本軍が残した毒ガスの被害が再発しており、以前の被害者に補償金を払うべきとする判例が出たりしています。日本でも米軍が落とした爆弾が最近でも見つかり、自衛隊が当り前のように文句も言わず処理しています。旧日本軍の毒ガスの処理が日本の責任とするのが道理とすれば、日本にある米軍の不発弾も米軍に処理してもらうべきではないでしょうか?原爆を落としたのは米国で落とされたのが日本なのに広島の原爆記念碑に「繰り返しません このあやまちは」と刻んで平気でいられる発想と似ていると思うのは私だけでしょうか?
(文責 井上 豊夫)




日付:2003.10.24 題名:第94回広州交易会
「綿糸高騰!」
中国の天候不順により綿花の減産が前年比30%になる見込みである為に中国国内の綿糸相場が急騰しており、紡績工場の内3分の1が生産停止状態のようです。8月に比べ26%以上の綿糸上昇を受け、タオル価格も15〜25%上昇しております。弊社としましては極力備蓄在庫にて対応し急激な値上げを回避する所存ですが新規生産をせざるを得ない商品や名入れ加工、捺染は新価格をお願いする場合がありますので何卒ご理解下さい。

「ウィークリー重光メール配信」
現在ファックスにて配信を受けられている会社で希望される方々にはメールで配信させて戴きますので担当者まで御申し出下さい。

 初めて参加した1976年以来、個人的には50回目となる交易会は今年の春がSARSの影響で実質スキップとなった為か物凄い参加者で盛況でした。多くのタオル業者が「交易会なんて行ったって仕様がない」と言う中で「中国貿易の原点は広州交易会にあり」と考え毎回参加して来ました。今取引をしている会社の多くがこの交易会が切っ掛けとなっており、中国貿易にありがちな「友人の紹介」を好まず、自分の脚で取引先を探す方針に最も相応しかったのがこの広州交易会でした。
 この交易会も次回から新会場に移る為、従来の場所では最後の交易会になる見込みです。最も想い出深いのは20歳台の後半、未だ冷房設備のなかった時代に合繊織物の売込商談の為に毎日4階まで全力疾走で階段を駆け上がったことです。毎回数十億円日本から買付けるため合繊メーカーや大手商社がしのぎを削る中、北陸三社と呼ばれた産元商社が「優先権」を持ち、世界中で唯一大手商社が中心になれないマーケットでした。アポイントを取る事自体が至難の業で次は自分が呼ばれるかと商談室の前で各商社が「女郎屋の女郎」のようにひしめき合っていました。仮にアポイントがあっても守られる事は稀なのでアポイントなしで、当時某産元商社にいた私は朝8:30に開門と同時に西門から4階まで階段を駆け上がり商談室に飛び込む作戦を考え出しました。商談室に飛び込むと汗が噴出し扇風機を回してもらっていると部屋の外で「チェッ」と8:30にアポイントをもらっていた大手商社の担当が舌打ちするのが聞こえました。毎朝顔を出すようになると「またお前か、仕様がないなぁー」と8:30は私の指定席になりました。毎日商談が進展するわけでもないので話題が詰まると日本から持ち込んだ露出度の高い「グラビア写真」を担当に見せて喜ばせました。私は話し声も大きいのですが笑い声は更に大きいので部屋の外まで聞こえる「笑い声」に外で待ちぼうけを食っている連中は「商談が進展した」と勝手に気を揉むのでした。
 その懐かしい階段を一人踏み締めながら過ぎ去りし27年の歳月と今回が最後になるであろう交易会場に別れを告げました。
(文責 井上 豊夫)
日付:2003.10.31 題名:広州白雲賓館
 白雲賓館というホテルが出来たのは確か1978年頃で当時としては広州で一番の高層ホテルでしたが北朝鮮の資材を使ったせいか不備なところが多く,後にエレベーターは日本製に取り換えられましたが今でも排水などに問題が残っています。今では広州には近代的ホテルが他にたくさんあるのですが、広州交易会の時だけは白雲賓舘を利用しています。
 白雲賓館は良きにつけ悪しきにつけ「古臭く、頑固な」ホテルです。来客の部屋への訪問は各フロアーの服務員(メードさん)に24時間厳しくチェックを受けます。以前私の部屋に貿易会社の若い女の子が仕事で来て,深夜11時頃に帰ったのですが、帰るとすかさず服務員が果物皿を持って部屋に入って来るのでした。
 このホテルの一階「白雲軒」というレストランの主任ウェイトレスに陳永芹という安徽省の農村出身の面白い女の子がいて時々英語を教えています。彼女の手帳には英単語と発音記号がびっしり書き込まれており、今回の御下問は「うなぎ」「蚕」「イカ」などメニューにあるものが中心でした。「eel」「silk worm」「cuttlefish」なんとかボロを出さずに切り抜けました。田舎の学校しか出ていないので基礎英語教育が出来ておらず、私の手書きのスペルが時々読めないのでした。
 一緒に白雲賓舘に就職した同郷の同級生の一部は「堅苦しい」白雲賓舘を嫌い、他へ移り今は「三陪小姐(サンペイシャオジエ:食事、ダンス、ベッドのお相手をするという意味)」になっているので自分は6年間23歳まで白雲賓舘で辛抱していると言うのでした。前に申した通り、私にとって美女の必須条件は「脚が速い事」ですが、彼女は元陸上の短距離選手で「顔も脚も美しく、思う事をズバズバ言う」姐御肌で、黒のスーツ姿で働く彼女を見て「カッコイイ」と思わない人はいないと思います。彼女の兄さんを含め三人兄弟が皆広州で出稼ぎしなくてはいけないほど故郷は貧しいのに春節と言われる旧正月には24時間汽車に乗って田舎に帰るそうです。昔、金沢出身で「ふるさとは遠きにありて思うもの」と詠んだ室生犀星と言う人がいましたが、貧しくとも毎年故郷に帰る彼女の生き方の方が真っ当だと思っています。
 お土産に高価な「人参烏龍茶」を5袋も貰った上に最後の夜、彼女が夕食をご馳走してくれることになっていましたが「来年1月で彼女とホテルの契約が切れ、次回はもういないかもしれないので」彼女の了解を取った上でこちらで白天鵝ホテルの「リバーサイドバーベキューレストラン」(プールサイドの素敵な屋外レストラン)を予約しました。
 約束の場所に元柔道の五輪候補選手だった妹と現れた彼女は「白天鵝ホテル」と言うと喜ぶどころか「遠いし高いし、あんなとこ行きたくない。キャンセルしろ」と文句を言うのでした。やっとの思いで車に乗せると「私は車に酔う。明日試験なのに」と更に機嫌悪くなっていました。白天鵝ホテルは広州で最も高級ホテルとされている所ですが自分が奢ると言っていたのに面子をなくして怒っているのです。
 席に着いて飲み物のオーダーをウェイトレスが取りに来ると「ブッフェに含まれてる飲み物はないのか?」と質問し「ない」と言われると「いらない」と答えるのでした。食べ始めても機嫌は直らず、「白天鵝ホテルのウェイトレスは広州で一番綺麗というけど美しくない、私の方が美しい」などと好きな事を言い、妙な対抗意識を見せるのでした。「料理も白雲と変わらない」と言うので「白雲にはバーベキューもキャビアも食べ放題のアイスクリームもないだろう」と思いつつ言わずに我慢しました。勘定間際に食べきれないほどのバーベキューが届きました。妹が頼んだようですが誰も食べられません。ブッフェスタイルでは持ち帰りはご法度なのにウェイトレスに「打包(ターパオ:持ち帰り)できないか?」と何度も堂々と聞くので冷や汗が出ました。勘定の時、彼女に見えないようにサインしましたが「一人幾ら?」と聞き、「言うな!」と言う私の声を打ち消すように「320プラス25%,飲み物別」とウェイトレスは答えてしまいました。「私の言う通り海鮮料理を食べに行けば3人で200元で済んだのに1240元(18000円)も払って私の給料より高い」と更に文句を言うのでした。白雲賓舘に戻るとロビーにいた同郷の大堂副経理の女の子に「今日はこの日本人に白天鵝に連れていかれ、1240元も払ったのよ」と迷惑そうに(少し自慢気に)訴えるのでした。人に食事を奢ってこんなに最初から最後まで文句を言われたことはありませんでした。けれど少しも腹立たしく思わなかったのが不思議でした。彼女は最後に「When we meet in next time?」と英語で聞き、私は「『When will we meet in next time?』とwillを入れるんだよ」と言って返事をはぐらかし、広州を後にしました。
(文責 井上 豊夫)
日付:2003.11.7 題名:予想屋
能登朝子さん結婚
10月26日弊社出荷担当、能登朝子さんが結婚致しました。入籍は6月25日だったようですが新居は富山県小杉市です。
結婚後も仕事は続けてくれていますので今後とも宜しく御願いします。社内では旧姓のまま「能登朝子」です。

高校時代の数学は今考えてもすごく難しく、模擬テストはたった四問なのに200点満点で100点以上取るのは僕には大変でした。一度だけなんかの間違いで145点を取った時の事は今でも鮮明に覚えています。言いたくありませんが0点だったこともありました。
 数学は数学甲と数学乙に分かれていました。満たされない16-17歳の男子高校生の欲求不満のはけ口として2年生の時クラスで「回し書き」していた大判の大学ノートがあり、授業中見つからないように表紙には「数学 甲」と書いてあった為、ノートは通称「数甲」と呼ばれていました。3年生になりクラスがバラバラになってもノートは続き、7-8冊になったと記憶してますが今は「行方知らず」です。中味はクラスメートの「童貞喪失物語」や「くだらない恋愛話」が主で「行方知らず」で良かったのだと思っています。
 当時総選挙があり、かなり政治少年だった私は全国の選挙区を一つずつチェックし、政党別当選者数を予想し、この「数甲」に書いた覚えがあります。選挙前の全国紙の予想は「自民党苦戦」で250-260議席でしたが私の分析結果は300議席以上でした。結果は自民党の勝利で私の予想とは数人の誤差でした。
 今度の日曜日も総選挙だそうですが今は全国の選挙区別分析などする気もありません。全国紙の予想では連立与党の絶対過半数確保は「動かない」そうですが今の情勢を客観的に見れば自民党を中心とする連立与党は敗北するように思えてなりません。下手に予想などしない方が賢明なのは判りますが「無党派層」と言われる人の半分以上は「民主党」に投票すると思います。今回敗北するのは「自民党」「保守新党」「社民党」「共産党」だと思います。
 民主党のマニュフェストと呼んでいる「公約」では道路財源9兆円の内、2兆円を毎年道路公団の40兆円の借入金返済に当て、残り7兆円で道路建設を行ない、高速道路無料化を実現するそうですがこれに対し自民党は真面目に反論せず、「タダより高いものはない」と混ぜ返すだけでは一般大衆は民主党を選ぶのではないでしょうか?
 当たればいいけど、外れたら如何しようか? 何と言い訳しようかと思いつつ、週末を迎えます。
(文責 井上 豊夫)
日付:2003.11.14 題名:心中未遂
選挙結果は予想通り、自民党、保守新党、共産党、社民党が負け、ホッとしましたが自民党の負け方が中途半端でつまらない結果となりま
した。

 最近のニュースで最も印象深かったのは河内長野市で19歳の男子大学生と16歳女子高校生の家族殺傷,心中未遂事件でした。「殺されても仕様がないな」と思われる十代の事件が多い中で、この事件の被疑者は学校の成績も良く、特に女子高校生の方は学年トップの成績で高校に進学したそうです。彼女の顔写真はモザイクが掛かっていますが「きっと凄い美人」だと私は思っています。
 男子大学生の母親は殺され、父親と弟は重傷を負い、女子高校生の自宅には彼女の家族を殺す為の包丁が購入済で「殺人予備罪」で逮捕されたようです。それぞれの家族を殺した後「二人で暫く生活して最後には一緒に死ぬつもり」だったそうです。家族に対して深い恨みもなかったようなのに何故殺そうとしたのか、疑問は募るばかりです。
 1968年3月県立高等学校の卒業式があった日の午後でした。勉強もしないのにプライドだけ高く国立一期校一本しか受験せず、「私立なんかいけるか」と思いながら一年間の「浪人生活」が始まろうとしていました。クラスメートと遊びに行くのに邪魔な「卒業証書」を百貨店のクロークに預け「遊ぶぞぉー」と思っていると百貨店の前で「井上君」と呼ばれました。
振りかえると同じ日に別の県立高校を卒業したK子でした。そしてK子の近くには名前は知りませんでしたが私が卒業したばかりの高校の一級下の男の子がいました。K子とは中学校のクラスメートで、普通の女の子とは違う独特の雰囲気を持っていました。勝気で気が強そうな性格で不良グループにも顔が利くのに一定の距離は保っており成績も良い方でした。K子とは百貨店前で立ち話だけで別れました。
 翌日地方新聞の夕刊に「金沢の県立高校を卒業したばかりの女子生徒と別の県立高校の2年生の男子生徒が富山市のホテルで心中し、男子生徒は死亡、女子生徒は助かった」との記事を見つけました。その瞬間これはK子に間違いないと確信しました。
 一年後私はプライドも捨てて私立上智大学に進学しました。夏休みに金沢に帰った折、K子をジャズ喫茶で偶然見かけました。そんな場所に一人でいても様になるK子でした。「如何して心中しようとしたのか?」聞きませんでした。次にK子から連絡があったのは社会人になってからでした。京都で結婚していたK子から「200万円貸して欲しい」との依頼でした。まだサラリーマン時代で迷いましたが「最悪戻ってこなくても良い」と思い「明日銀行に振り込むよ」と言うと「彼女の旦那が今から金沢まで受取りに来る」と言うのでした。
銀行に振込むと困る事情があるとは相当だと思いました。初めて会うK子の旦那は借金慣れしているのか「担保」として200万円の先日付小切手と200万円分の約束手形と借用証書が用意されていました。その内予定通り落ちたのは50万円だけで残り150万円は落とせませんでした。2年程経ちほとんど諦めかけた時、突然K子から電話があり「残金を送った」と言うのです。本当の残金には4万円足りませんでしたが何も言いませんでした。「如何してこのお金を作ったのか?」
「如何して心中しようとしたのか?」ふたつの疑問だけが今も残っています。
(文責 井上 豊夫)






日付:2003.11.21 題名:原則を忘れた時代
 「窮鼠猫を噛む」という諺があります。「追い詰められた鼠は猫を噛むことがある」という意味ですが米英中心とした連合国がテロリスト集団を殲滅するためアフガニスタンとイラクに攻め入り、逆にテロリスト達に自爆テロで反撃を受けている状況に似ています。西欧民主主義国からすればとても認められない体制の国があったとしても基本的にはその国自身の選択に任すべきであり、攻め入ることは許されない事だと思います。
 米国からすれば9.11を仕掛けられたのであるから反撃するのは当然の権利であると主張するのでしょうが9.11を仕掛けた側の論理としては第一次湾岸戦争終了後「まだフセインがいて危険だから」といってイスラムの聖地に米軍が駐留を始めた事が原因でした。
 日本と中国が国交を回復した頃ですから1973年頃耳にした「周三原則」というのがありました。
1.相互不可侵
2.互恵平等
3.民族自決
 周恩来が言ったこの三原則には国と国が付き合うのに最低限守らなければいけないエチケットが全て含まれているように思います。(現在の中国がこの原則を守っているとはとても言えませんが)
 今米英両国が取っている政策はこの原則を大きく逸脱していることは明白です。今必要なのは原則に立ち帰り、相互の違いを認め、例え相手が自分達の基準からすれば「おかしくても」上記の三原則だけは守るべきではないでしょうか?世界中が米国が正しいとずる信ずる「民主主義国」にならなくても三原則が守られれば相手がイスラム教国であろうと王国であろうと違いを認め合った上での友好関係を構築できると思います。
 今からでもこの三原則を守り、アフガニスタン、イラク、サウジアラビアから外国軍を全て撤退させるべきです。そうすればアルカイダの自爆テロはなくす事が出来ると思います。日本が取るべき道はおっかなびっくり自衛隊を出して「腰抜け」と言われるより堂々と周三原則を主張することだと思います。日本が米国の真の友人であれば「気が進まないのにお付き合いで軍隊を出す事」ではなく、友の過ちを指摘することだと思います。
(文責 井上 豊夫)






日付:2003.11.28 題名:右翼は『ばい菌』ですか?
御陰様で第21期決算が出ました。
興味のある方は弊社ホームページhttp://www.shigemitsu-shoji.co.jpの「企業情報欄の財務ハイライト」をご覧下さい。
今期も頑張りますので宜しくご指導下さい。
「今週の話題」のバックナンバーも弊社ホームページでご覧下さい。

東京オリンピックが記憶にある世代であれば小野清子さんが体操の日本代表選手で東京オリンピック女子体操の団体3位の原動力だった事を覚えていらっしゃると思います。現在は閣僚として小泉内閣の国家公安委員長として活躍中ですが閣僚に就任後「右翼から過去に献金を受けていた事」が問題とされ、数年に渡り受けていた政治献金合計100万円を返却したと報道されていました。
 日本は法治国家であり、法を犯さない限り思想、信条の自由が憲法でも認められていることは明白な事実です。それにもかかわらず「右翼」というだけでその政治献金すら世間から非難を浴びるのが今の日本です。右翼=ばい菌=悪 なのでしょうか?反対に左翼と言われる人達が同じように非難される場面に出くわした事はありません。もし「右翼」の献金がいけないのであれば「左翼」の政治献金も非難されてしかるべきであり、前述のように「思想,信条の自由が保証されている日本では「右翼」も「左翼」も認められるべきではありませんか?
 今年の春、昔の仲間から大久保利通暗殺事件の首謀者旧加賀藩士「島田一良(しまだいちろう)」の追悼式があるとの案内を受けて参加したことがありました。発起人の方はサラリーマンで何とかこの事件を風化させず後世に伝えていかなくてはいけないとの純粋な思いから企画されていることが理解できたのですが30名余りの参加者の多くが一般人とは違う印象の人々で異様な雰囲気でした。懇親会にも参加しましたが私のテーブルの話題は女の子を輪姦して捨てた自慢話などが主体で発起人の純粋な気持ちに反して集まったのは「右翼」を騙る暴力団に近い連中でした。金沢ではこの程度の人しかいないのかと残念に思いました。確かに「右翼」を標榜する人々に暴力団と区別のつかない連中がいることは認めざるを得ませんが真剣にこの国の行く末を憂いている「右翼」も存在することも事実として認識すべきです。私が学生時代に師事した三島由紀夫氏は常識をわきまえた気配りの人で例えば知人を劇場に招待する時には少しでもその場が和むように右隣は○○さん、左隣は△△さんと事前に知らせる程心優しい人で亡くなって33年になりますが三島由紀夫氏以上の人に出会うことはありませんでした。三島氏もいわゆる既成右翼との接触を持たない様に気を使っていました。
 日本のマスコミは「右翼」には端から批判的であり、「左翼」には大変甘いという伝統があります。一部に「ミスター円」ともてはやされている元大蔵官僚榊原英輔氏(慶大教授)は以前全学連の活動家であり「左翼思想」の持ち主ですがそのことを蒸し返すマスコミはなく、大蔵官僚としてトップにまで上りつめることになりました。現代では「左翼」には甘く、「右翼」には頭ごなしに否定する傾向が増々強くなっています。
 人をレッテルだけで判断するのではなく、互いに考えの違いを認め合い共存して行くことこそ大切だと思います。オウムと聞いただけで隣人として認めない騒ぎもありましたが考えの違う人々を認めることが「思想、信条の自由が保証された社会」を作ることになると信じています。(文責 井上豊夫)
日付:2003.12.5 題名:脱脂粉乳の想い出
弊社の社内にあったサーバーが外部のものに切り替わりましたのでホームページアドレスhttp://ns.shigemitsu-shoji.co.jpは今後使用できません。今後は http://www.shigemitsu-shoji.co.jpをご使用下さい。

ローカルな話題で恐縮ですが金沢の小学校で給食に出された牛乳が「変な味がする」と一部の生徒が騒ぎ、地方新聞は一面トップで報道して騒ぎを大きくした為に納入業者は窮地に立たされ、代品として納入された他社品も「変な味がする」と騒ぐ始末で、有害な細菌が検出されたわけでもないのに批判された牛乳製造業者に同情を禁じ得ませんでした。
 子供は暗示に掛かり易く、誰かが「おかしい」と言い出すと周りは同じ気持ちになり易いのだと思います。
 私が小学校に入学して一ヶ月も立たない内に火事で校舎が全焼し、近くの学校での2部授業が2年間続き、給食が始まったのは3年生になってからでした。給食の初日に出たのが「鯵のムニエル」でそれまで家で食べたことのない「美味しさ」だったので母に「家でも作って」と頼んだ記憶があります。当時給食で出されたのは「脱脂粉乳」でした。今では「スキムミルク」として低脂肪をセールスポイントとして売られているものです。反政府、反米思想の強い「日教組の教師」たちは生徒に「米国から輸入された脱脂粉乳はアメリカでは動物の飼料になっている」と教えたこともあり、暗示に掛かった生徒の多くが「不味い」と思い込み、給食のおかずは足りないくらいなのにミルクは何時でも残っていました。脱脂粉乳にはちゃんと脂肪も添加されており私には「美味しく」感じられたので毎日3杯ずつ飲みました。
 ミルクなんて凝視し少しずつ味わいながら飲めば「変な感じ」がするのが普通だと思います。数年前にモンゴル共和国に行った時、牛乳ではなく、馬乳を飲みました。ゲルと呼ばれるモンゴル式テントの外で乳絞りを見せてもらいました。長年の知恵と言うのでしょうか馬の4本脚の内、前足の一本を折り曲げて紐で縛り3本脚で立たせて、後ろ足で蹴りを入れられないようにしてから乳絞りは始まるのでした。しかし、なかなか乳は出てきません。すると子馬が連れて来られて乳を吸うと人間の手では何も出なかった乳房から白い馬乳が出始めました。一旦出始めると哀れにも子馬は引き離され、人の手で馬乳が勢い良く出るのでした。モンゴルの大草原と言うとロマンチックなイメージかも知れませんが実際には羊、馬、牛などの糞が多いので至る所にハエがいて昼ご飯を食べるのも大変でした。ハエをかき分けながら飲んだ「馬乳」と不人気だったけれど私には美味しかった「脱脂粉乳」は忘れられない思い出です。
(文責 井上 豊夫)






日付:2003.12.12 題名:外交官の死
 イラクでの二人の外交官の死亡が臨時ニュースとしてテレビにテロップが 流れた時、最初に感じたのは「自衛隊員でなくて良かった」でした。学生時代に自衛隊には大変お世話になり、今でも自衛隊に対しては特別の感情を持っています。一方、日頃仕事の上で接する外務省のイメージは決して良いものではありませんでした。中国人が来日する時には今でもビザが必要で時々その為の「招請状(インビテーション)」を希望されることがあります。我々が提出した書類は在外大使館、領事館経由で外務省に送られ、疑問点があると外務省から電話があることがあり、その時教えてくれた電話番号に掛けるとすぐに繋がり、質問に答えることができるのですが、こちらから聞きたいことがあってその電話に掛けると取り次いでくれず、公開されている「繋がる可能性のほとんど無い番号に掛け直せ」と言われます。外務省職員の対応を見ていると何度か「外務省に火を付けたく」なったことがありました。世界中の大使館や領事館に勤務する外交官たちは高給を食んで遊んでいる人たちがほとんどで、今回犠牲になったお二人は例外だと思います。在外外交官の内、9割は何ら役に立っていない人たちでいなくなった方が良いような外交官が一杯居ると思っているのに今回亡くなったお二人のご遺体が帰国した時、涙が止まりませんでした。彼らの個人的見解を知る手立てはもうありませんが宮仕えの身故「連合軍暫定当局(CPA)」に協力したのは止むを得ない事だったんでしょうが、彼らの行動は間違っていたと思うのに、涙を禁じ得ないことこそ「ナショナリズム」なのだと思い、三島由紀夫氏が存命中に、未だ米国から返還されていなかった沖縄で左翼学生デモ隊に米兵が銃撃を加えた時そこに居合わせたら如何のように行動するか?と言うことを話し合った事を思い出しました。三島氏の答は「撃った米兵を斬り、そこで切腹する」と言うものでした。例え考え方は全く違う学生であっても同胞を守り、尚且つ彼らと違う立場であることをそこで切腹することで示すというのが三島氏の考えでした。これを聞いた当時あまり納得できなかったのが正直な所でしたが、今思い返すとこれこそが「ナショナリズム」であり論理を超えたものだと思いました。
 聞くところによると在イラク日本大使館の大使は東京にいるそうで今回の遺体の搬出も全て米国任せでした。太平洋戦争末期に沖縄が戦場となることが必死の時、沖縄県知事に任命された人が口実を並べて沖縄に赴任しなかった事件に似ています。いない方が良いと思われるその他大勢の外交官、外務省職員たちがこの二人を「英雄」として僕は彼と同期だったとか、二年後輩に当たるなどと言うことこそ「虎の威を借りる狐」だと思います。
 彼らが殺されたから「自衛隊は行くべき」とか「自衛隊は行くべきではない」という議論ではなく、マレーシアのマハティール氏が言うように「米英両軍はすぐにイラクから撤退し、イラク人に政権選択を任せるべき」だと思います。
以前にも述べたように「壊したのは米英軍」なので戦後復興の金銭的援助を米英が中心となってするのは当然です。周三原則は守られるべきです
1.相互不可侵(内政不干渉)
2.互恵平等
3.民族自決 

(文責 井上 豊夫)





日付:2003.12.19 題名:近くて遠い国
 最近中国の女の子からもらった手紙の中に気になる所がありました。
「(前略)、貴方と知り合えて本当に嬉しく思います。穏やかで優しく国が違うことも年の差も忘れて付き合えるなんて予想もしませんでした。実は以前の私は日本人に対する見方が多くの中国人と一緒で「偏見」を持っていました。
 しかし、貴方に出会って日本人にもいい人はいるのだ、尊敬できる人もいるのだと本当に驚きました。(ごめんなさい、現在多くの中国人の日本人に対する見方は不正確なものです。) 但し、貴方は一緒ではありません。なぜなら貴方は素敵な日本人だからです。(後略)]」(原文は中国語)いい人も悪い事をし、悪い人もいい事をするのが現実であることをこの女の子は未だ理解していないようで、私についてかなり誤解と買い被りの部分がある点は目をつむって戴きたく思います。手紙の主は20歳台の美女ですが残念ながら「仕事上の付き合い」だけでご想像戴いているような関係ではないのですが「多くの中国人が日本人に対して偏見を持っている」という所は今まで27年間も中国と行き来して来た者としては「意外」でした。今まで中国で多くの人に出会いましたが彼らが偏見をもっていると感じる事はほとんどありませんでした。商談中に「歴史問題を出され嫌な思いをさせられたこと」も皆無だったのは単に運が良かったのか鈍感だっただけなのかと今思っています。このような偏見は彼女たちが受けた教育が根本にあるのだと思います。中国では日本人:加害者、中国人:被害者の歴史教育がなされ、一方日本では父母、祖父母の時代の歴史教育は学校でなされることはなく、受験に出ないことになっているので受験生の勉強範囲からも最初から外されています。日本人の近世歴史知識の欠如は目を覆うばかりです。最近も「フセイン拘束」のニュースの時、21名の弊社社員に「東京裁判」を知っているか?と聞いた所、知っている者は皆無でした。歴史に無知な日本の若者が何も考えずに中国に留学し、偏見教育を受けた中国人と接していることを考えると背筋に寒いものを感じます。先日の西安の大学での留学生事件はその一例です。
 11年前に独資で中国に工場進出したタオル工場の方と話す機会がありましたが中国から輸出する場合に認められている増値税の還付(現行17%、来年より13%)は日本資本の会社に還付される事はほとんどないのに欧米資本の会社にはかなり還付されているそうです。このような人種差別に対して日本政府は抗議しようともせず、マスコミで報道される事もなくほとんどの日系企業が「泣き寝入り」しているようです。中国と付き合って27年を過ぎましたが一円の投資もしてこなかったのは「大正解」だったと思っています。お陰で中国の嫌な面を敢えて見る事もなく、商売をさせてもらっています。
 賃金が安いことだけが誇張されて宣伝され、草木がなびくように実態を確認しようともせず、「皆行くから」と勧める銀行の口車に乗って「中国へ進出」することは避けるべきだと思います。経済開発区の場合、モデル地区ということで巷間いわれている賃金水準の6倍ほどが実質賃金となっているようです。電気、水、ガス、スチームなどの元栓は全て中国側に握られており、何時でもストップできる仕組みになっているとのことでした。中国が「近くて近い国」になる日は何時なのでしょう?
(文責 井上 豊夫)
日付:2003.12.26 題名:歴史の見方,捉え方
今年最後の「今週の話題」となりました。弊社の営業も12月26日(金)で終了です。
新年は1月5日から営業、「今週の話題」は1月9日からのスタートです。今年も大変御世話になりました。良い年を御迎え下さい。
「手のつかぬ月日ゆたかや初暦」吉屋信子

中学生の頃、「何故歴史を学ばなければいけないか?」と質問された事があり、「高校受験がなければこんなもの覚えても仕様がない」と思った記憶があります。「1192年鎌倉幕府成立」とか「1600年関が原の戦い」などと覚えて例え試験で点数を稼いだとしても何の意味もないと思います。
 先週号で触れたように近世の歴史の見方は中国の学校では加害者:日本、被害者:中国として教えられているのに対し、日本では学校で触れず、入試にも出さないことで済ませています。歴史を学ぶ事で大切なのは何年に何があったと覚える記憶力競争ではなく、一つの事象を「どう捉えるか?」にあるように思います。例えば日本がかつて、中国東北に満州国を作った事が侵略なのか侵略でないのかという問題だけ見ても人によって異なる判断をするのは何故なのでしょう?それは歴史の「見方,捉え方」の違いなのだと私は思います。
 弊社には蒙古族で内蒙古出身の中国人社員が二名いますがその一人ゲゲンターナさん(女性)と「蒙古襲来」について話した事があります。「蒙古襲来」とは鎌倉時代に中国〜欧州まで支配した元(中国)が九州に2度に渡り攻めてきた事件です。もしあの時侵略を許していたら、今彼女が社長で私が奴隷的社員であったかも知れないと冗談を言っています。蒙古が日本に攻め入ってきたのは「侵略」に違いはないのですが「侵略」=「悪」と言う判断で歴史を見るのは正しくないと思います。侵略されないように水際で食い止め、蒙古軍を追い返したのは当然の行為であり、そのお陰で日本は「元の支配」を免れたわけです。
 侵略を許さないように準備をしておくことは当然で、それを怠っていて支配されたと嘆いてみても遅いということを学ぶことが歴史を学ぶ上で最も大切な事だと思います。世界の歴史は強い者が弱い者を支配することの繰返しであり「侵略」=「悪」では正しく状況を理解する事は出来ず、「侵略を許した側の非」も理解しないと歴史は正しく見られないと思います。最近では湾岸戦争の時、フセイン支配のイラクと米国とその連合軍との間で戦争になりましたが「攻め入ったイラクの非」は非難され、「巨万の富に溺れ、隣国の侵略に備えを怠ったクウェートの非」は非難されることはありませんでしたが戦車よりロールスロイスの方が多いと言われたクウェートも非難されるべきだったと思います。
 蛇足ですがゲゲンターナさんは自分の祖先の「侵略」を恥じるどころか「何故九州の防人に負けたかと言うと蒙古軍の大半が支配した朝鮮人で蒙古人がほとんどいなかった為であり、作戦ミスだった」と残念がるのですがそれで良いのだと思います。「侵略した側の非」と「侵略を許した側の非」を両方公平に見る立場を私は支持したいと思います。
「侵略した側の非」だけを非難する立場でしか歴史を見ない方がたくさんいますが「歴史の見方,捉え方」が一致しない限りどこまでも平行線です。私の立場で歴史を見れば「元に恨みを持つ事もなく」「朝鮮に出兵した豊臣秀吉を侵略者として恥じ入ることもなく」歴史から自国を守る事の大切さを学ぶ事が出来ます。
 一方、「侵略した側の非」しか見ない立場ですと歴史を学ぶ事は恨みの積み重ねにしかなりません。英国あたりは世界で最も恨まれることになりそうです。歴史を学ぶ時は「その見方、捉え方」から始めなくてはならないと思います。清(中国)を始め多くのアジア諸国が欧米の植民地になる中、侵略を防ぎ独立を守った明治維新の志士たちに感謝できるのも歴史を学んだお陰だと思います。
(文責 井上 豊夫)
日付:2004.1.9 題名:役人の香り
明けましておめでとうございます。今年も宜しくお願いします。
「今週の話題」はファックスで約200、メールで44, ホームページで100〜150くらいの方々に見て頂いています。合計すると400を越えるかもしれませんが熱心に読んで頂いてるのはきっと 5〜10人くらいだと思っています。
例え一人でも真剣に読んで頂けるなら体力の続く限り続けさせて頂きたく思います。

長野県の田中康夫知事が新春の訓示の中で「長野の名称を信州に変える」ことを検討したいと語ったことが話題になっています。新聞記事によれば「観光パンフレットには長野ではなく『信州』が使われている」と田中氏は言っているようです。なぜ観光パンフレットに「長野」が使われず「信州」が使われているのかを考えてみました。

 廃藩置県が実施されたのが1871年(明治4年)、改正され現在に近い形になったのが1988年(明治21年)の事だったようですが明治政府は藩を廃止し新しく県名を作ることにより旧幕藩体制を排し新しい中央集権体制を作り上げる為に新しい県名が必要だったのでしょう。県名を決める時に長く使われてきた地名を意識的に排除し、今の県名にしたのは「明治のお役人たち」でした。信州も甲斐も肥前も肥後も讃岐も伊予も土佐も越中も越後も使われず、長野、山梨、佐賀、熊本、香川、愛媛、高知、富山、新潟とお役人たちは全く新しい名前を付けて100年以上の年月が過ぎたわけですが役人が名付けた県名は未だに馴染んではいないので長野の観光パンフレットには「信州」が使われるのだと思います。こうして江戸時代の地名と現在の県名を比較すると江戸時代の地名にはロマンがあり情緒が感じられるのに対して明治の役人が作った地名は「役人の香り」が100年経っても消えていないと思います。一日も早く旧幕藩体制色を一掃したいが故に馴染んでいた旧地名を意識的に避け、無理やり作った地名はぎこちなさが消えません。もし長野のみならず山梨、佐賀、熊本、etc. の 観光パンフレットを作るとしたらやはり甲斐、肥前、肥後 etc. を使うと思います。
 ソビエト連邦だった頃、革命の父レーニンの名前を付けてレニングラードと呼ばれていた街はソビエトの崩壊と共に住民の圧倒的支持を受けた帝政ロシア時代の都市名サンクトペテルブルクに逆戻りしましたがきっとこれも「役人の香り」が消えていなかったのだと思います。
 長野県の田中康夫知事には必ずしも良い印象は持っていないのですが彼の発言には心に引っかかるものがあります。田中氏が「長野」に感じる違和感、「信州」に感じる親近感、これらは言わばフィーリングの問題であり、感じない人、特に自治省出身の知事あたりには「役人の香り」はもしかして判らないのではないかと思います。この微妙な「香り」を理解戴ける読者が何パーセントいらっしゃるか判りませんが「役人の香り」を感じて戴ける方々と「廃県置旧名」運動を開始したく思っています。
(文責 井上 豊夫)
日付:2004.1.16 題名:天安門事件
1989年6月4日北京で起きた天安門事件は今や忘れ去られそうになっており一時英雄的に消息が伝えられた事件の指導者だった学生たちも海外に亡命後音沙汰がありません。
 事件の発端は同年4月15日に胡耀邦前共産党総書記の死亡で、胡氏の死去を惜しむ学生や若者が天安門に坐り込んだことから始まりました。その数は徐々に増え内外のマスコミによって伝えられるようになりました。私は丁度その頃広州の交易会に参加しており、今は亡き陳瑞春君から「胡耀邦氏が亡くなったことと彼が可哀想だ」と聞かされました。テレビが伝える天安門広場の坐り込みを見て一つ気になったのは坐り込んでいる学生が英語のプラカードを持ち、海外メディアに訴えようとしていたことでした。天安門広場の坐り込みが一種の正義運動であったなら海外メディアを利用しようという考えは間違いだと思いました。
 再三の退去命令が無視され、人民解放軍が出動し6月4日未明、遂に軍隊が動き出し多数の死者が出ました。但しマスコミで伝えたように天安門広場での虐殺は実際にはなかったと私は思っています。事件後NHKで放映されたスペインの放送局の記録によりますと彼らは天安門が封鎖されてからマンマとタクシーで南側から広場の侵入に成功し、学生と軍隊と交渉の結果、学生たちが整然と広場を後にして出ていく姿を写していました。東京大学の安田講堂攻防事件で中に最後まで立てこもっていたのは東大生ではなく、他大学の学生だったように、天安門広場に最後まで残っていた学生の中に学生の指導者として有名になっていた学生は一人もいなくて、緊迫した状況で軍隊と交渉にあたったのは名前は忘れましたが台湾の留学生(歌手)でした。マスコミにもてはやされた指導者たちは危険を察知していち早く広場を脱出していたのでした。
 弊社では陳瑞春君が上海にいました。上海も学生によって道路が封鎖され交通はマヒしていました。私は名古屋からシンガポールに出発する直前に事件を知り、シンガポールに着いてから陳瑞春君が身動きできない事を知り「ともかく上海の空港までたどり着き何処行きの飛行機でも良いから乗り込み、上海を脱出するよう」指示を出しました。取引先に頼んでリヤカーで迎えに来てもらい、上海の茂名南路にある錦江飯店から虹橋空港まで歩いて二時間かけて空港までたどり着いたそうです。
 シンガポールでは中国系銀行に預金を引き出す人が長蛇の列を作っていました。次に移動した香港では出迎えてくれた香港の友人の腕には黒い喪章が巻かれており、街行くタクシーはどれも黒いリボンをなびかせていました。最後に寄った台北では空港で見知らぬ人からエアーメールを渡され、日本から郵送して欲しいと頼まれました。中には北京での虐殺を報じた新聞のコピーがはいっており、事件が正確に報道されない中国の各地に真実を知らせるのが目的のようでした。けれど帰国後私は投函しませんでした。
(つづく)

(文責 井上 豊夫)
日付:2004.1.23 題名:天安門事件
 事件発生後、政府,外務省は中国への「渡航自粛勧告」を発令して中国に行かないように指導を始めました。マスコミが伝える中国情報は「大変混乱しており危険」というものばかりで「中国は開放政策以前に逆戻りし、中国貿易も大きな影響が避けられない」という意見が圧倒的でした。本当の状況はマスコミや外務省の発表では理解できないと思い、中国進出企業が駐在員を引き揚げている最中、6月後半に上海に行きました。ジャンボジェットB747は乗客が30人足らずにスチュワーデスが15人でマンツーマンに近いサービスでした。
 上海に着くと一見何もなかったように静かで、バリケードもすでに取り除かれ、誰も事件のことを話題にする者もなく、泊った錦江飯店も客は少なく閑散としていました。錦江飯店は旧フランス租界にあり、フランスが作った由緒あるホテルで日中国交回復交渉に北京を訪れた田中角栄首相も上海では錦江飯店の北ウイングに泊りました。他に中ウイング、南ウイングがありそれらの間の庭園も美しく、雰囲気の良いホテルです。中ウイングには流行り始めたばかりのディスコがあり、以前は大変賑やかでした。「事件後今はどうなっているだろうか」と覗いて見ると客は少なく、踊っている人もまばらでした。薄暗い店内に眼が慣れてくると近くの席に女優梶芽衣子に似た美女がいることに気付きました。音楽がうるさく話し声が聞こえにくいので彼女の手招きに応じて隣の席に行きました。ディスコに来ている遊び人の女の子は普通二人連れが多いのに彼女は一人で、一緒に踊ったり、話したりしている内に「シャオフェイをくれないか?」と言い出しました。私の中国語の先生は日本人ですが元八路軍(共産軍)の従軍看護婦だったせいか「清く、正しい中国語」しか教えてくれませんでした。「シャオフェイ」は習った事のない言葉でしたがその状況からして「チップ」の意味の「小費(シャオフェイ)」であると直感しました。現在と違いまだ厳しい時代だったので「ここで渡してもいいの?」と聞くと、「ここではダメ」と言いました。二人で店の外にあるトイレに行き、私は男子トイレでチップを準備し、外で待っていた彼女と廊下を歩きながらチップを渡しました。スパイ映画みたいなスリルを味わいながら、天安門事件は一体何だったんだろうと思いました。
 次に行った大連ではホテルのエレベーターの中で身長175cmの美女二人と乗り合せ、仕事を聞くと「ファッションモデル」だと言い、一人が張と名乗ったので「張先生」と呼ぶと二人はケラケラ笑い、「女の子は『小姐(シャオジエ)』で『先生(シェンション)』とは言わない」と言うのでした。これも厳格な我が中国語の先生の影響で「中国では男女共『先生(シェンション)』と呼びます」と教えられたのでした。「夜、ホテルで『ショウ』をやっているので来ない?」と言われ、行ってみると満員のホテルのバーで「ファッションショー」をやっていたのですが「ファッションショー」とは名ばかりで「美女の鑑賞会」に近い雰囲気でした。出番の終わった彼女たちを両脇に侍らせながら「中国が逆戻りする事はあり得ない」と実感し、これからも「中国貿易は大丈夫だ」と確信しました。
(文責 井上 豊夫)
日付:2004.1.30 題名:100座席の理論
1月22日,金澤は、三年振りの大雪で昼間でも気温は氷点下−4.1℃まで下がり、猛吹雪に見まわれ、積雪49cmを記録しました。普通、金澤の雪は気温が高く湿気の多いべた雪なのですがこの日ばかりは「パウダースノー」でした。駐車場の車に吹き付けた強風はボディーに跳ね返り、雪をえぐるように美しい「風紋」を作っており、さながら「白い砂漠」のようでした。
 雪の芸術に見とれていた後に待っていたのは信じられない程の交通渋滞でした。普段は30分足らずで自宅に着くところが4時間20分かかりました。これはまだいい方で5時に会社を出て午前1時に帰宅した女子社員もいました。交通渋滞に巻込まれていた時、二車線あるのに一車線にだけ車が並び、少し雪で狭くなっていた右車線は空いていました。「中国だったら隙間があれば後のことを考えずに突っ込んで行くなぁー」と言いながら試しに誰もいない右車線に突っ込んでみると意外にスムースに進み、後ろから何台も右車線に入る車が見えました。見える範囲の状況を確かめながら、右車線か左車線か、有利な方をその都度見極めノロノロ進みながら、学生時代に作った「100座席の理論」を思い出しました。
 「100座席しかない所に、例えば150人が押しかけた時、100人は座れて残る50人は座れなくなるのですが座れない50人の中に入って『文句を言う』よりも何とか努力して座れる100人の中に入るべきである」というのが「100座席の理論」です。150人の所に150の座席が用意されていればそれは「理想」ですが、人生そうでない場面は決して少なくありません。突き飛ばしたり、蹴飛ばしたりしてまで席を奪うのはいけないと思いますが「相当な努力をして座る」ことは必要だと思います。もし座れなかったとしても「文句を言う」のではなく、「座れなかったのは自分の努力が足りなかったのだ」と納得すべだと思います。これが学生時代に作った「100座席の理論」の真髄です。
 社会人になり中国へ行く機会が増えると、「100座席の理論」が生きる機会が多くなりました。しかも100座席に150人ではなく、1000人みたいな感じで争う機会がたくさんあり、「体で押し返す」のは当たり前で、「肘ブロック」が上手になり、「100座席の理論」は体験的に磨き上げられて行ったのであります。
 世の中が「不況」だと言えば自分の生活が苦しいのは「世の中」のせいであり、「政治」のせいであると文句をいう人が少なくありませんが、このような人には「永遠に良い風は吹かない」と思います。自分の生活が苦しいのは「世の中」のせいでも「政治」のせいでもなく「自分のせいである」と思える人には「必ず良い風が吹く」と思います。「100座席の理論」は永遠に不滅です。
(文責 井上 豊夫)
日付:2004.2.6 題名:フランクフルト 2004
新商品の御紹介: No.HAR25 ウッドンレーヨン80%,綿20%、25x26cm ハンカチーフが入荷しました。ウッドンレーヨンの光沢と手触りが特長で従来品に比べ、大幅に値下げできました。お試し下さい。

1月の中旬にフランクフルトのハイムテキスタイルに参加するようになって6年になります。出発前に毎年出展していたイタリアのタオルメーカーの女性からメールが入り、「彼女の会社が今年は出展しない」ことと「2月で14年勤めた会社を辞めること」を伝えてきました。この6年間を振り返って特筆すべきは「アジア、特に中国の進出」でした。ハイムテキスタイルの歴史を詳しくは知りませんが、以前はきっと欧米のバイヤーが欧米のメーカーから新商品を買い付ける重要なイベントだったのだと思いますが「アジアの進出」が拡大するにつけ、アジア諸国のブースを特定フロアーに「隔離」しようともバイヤーの欧米離れは加速し止まらず、欧米の出展者にはだんだん魅力が薄れてきたのではないかと思います。
 中国は欧州から見ると「極東(Far East)」に位置しており「遠い」上に、社会主義を未だに捨てきれていない「国家体制」を持つ異質な存在であり、商取引で問題が発生しても「クレーム金」を取る事が困難な相手と見なされて来ました。
 しかし、国家体制は未だに古いものを捨てきれずにいますが日常の経済活動は急速に洗練されてきており、非があれば「クレーム金」を支払う「スマートなビジネスマン、ウーマン」が増えてきているのが現状です。香港の友人によれば「以前は欧米の客は香港の会社に委託して中国品を買い付けるのが一般的だったけれど最近は中国の担当者がスマート(良い意味で「賢く」)になりクレームも払うようになってきたので自分たちが介在する隙間がなくなりつつある」そうです。
 今、日本のタオル産地である今治や泉佐野では輸入品の増加でタオルメーカーの廃業が続いていますが単に日本だけでなく欧州、米国のタオルメーカーにも同じような波及効果があるようで、Cannonを買収した米国最大のPillowtexも現在清算中のようですし、欧州のタオルメーカーも「アジアの脅威」を感じ始めているのは間違いありません。
 ハイムテキスタイルの主催者メッセフランクフルトの公式発表によりますと入場者数は昨年比増加したとのことですが私が実感した所では確実に減少しています。会場内のレストランは昼食時でも以前ほど混雑しておらず、主催者の発表は「大本営発表」と思われます。
 20世紀半ばまで、アジアは欧米の植民地的存在でしたが21世紀はアジアが米国,欧州と肩を並べる巨大な経済圏になる世紀だと思います。願わくば中国一国が栄えるのではなく、アジア諸国全体が繁栄してもらいたいと思います。隷属的関係ではなく欧米と対等な経済圏のアジア、そしてその中で存在感のある日本になって欲しいと思います。
(文責 井上 豊夫)

PS: 「今週の話題」バックナンバーは http://www.shigemitsu-shoji.co.jp をご覧下さい。
日付:2004.2.13 題名:他人の不幸は蜜の味
他に話題がないのでしょうか、連日牛丼屋の牛丼がなくなる話題で持ちきりです。牛丼屋にすれば主力商品の販路を断たれる訳ですから「大変な問題」なのに、「他人の不幸は蜜の味」をモットーとする日本の低レベルのマスコミは「最後の一杯」に群がっています。今後、米国の牛肉輸入停止が長引き、牛丼屋が倒産でもすれば日本のマスコミにとってこれ以上の「出来事」はないのだろうと思います。冷静に今実施されている牛肉輸入停止措置の矛盾を衝くマスコミは一社として現れそうにありません。
 もし、政府が言うように米国から輸入される牛肉が「危険」なものであるなら、今後輸入される牛肉だけでなく、既に輸入された牛肉も同程度に「危険」であるはずで日本国内の輸入済み米国産牛肉全てを「廃棄処分」にすべきだと思います。もし、輸入済み米国産牛肉の販売を今後も許可するのであれば同程度の「危険」の牛肉の輸入を禁止するのはおかしいと思います。このような明らかな矛盾を指摘するのがマスコミの使命だと思いますが、「不幸の蜜」にあさましく本能のまま群がる事しか彼らにはできないのです。
 米国にすれば「植民地、日本」に宗主国米国が「全頭検査」を要求され、「飼い犬に噛まれた」思いなのでしょう。米国人が「検査なし」で黙って食べている牛肉を「全頭検査しろ」なんてことを日本が言うなんて「とんでもない」と内心思っているのでしょう。「イラクへ軍隊を出せ」と米国が言えば憲法解釈も踏みにじり「派兵」した何でも言うことを聞く「都合のいい俺の女」と思っていた「日本」が反旗を翻したのですから米国にすればこれ以上面白くないことはないと思います。
 科学的に言えば眼球や脊髄などの「危険部位」以外の牛肉は熱処理すれば問題ないと言われており、それが「事実」なら米国産牛肉の輸入禁止措置を解除すべきだし、もしそうするなら、日本国内の「全頭検査」も解除するべきだと思います。
 日本でBSE問題が発生した時には国産牛肉の在庫を買い上げる「緊急措置」を実施し、それを悪用した雪印食品をマスコミは連日叩きに叩き、遂に解散、廃業に追い込んだ事件はまだ記憶に残っていると思います。BSEに過剰に反応する日本に対し、平気でステーキを食べている米国人を見るときっと米国には「他人の不幸は蜜の味」と考えるマスコミは存在しないのかもしれません。
 牛丼屋が牛丼を再開できる日が来たら、マスコミは報道するでしょうが確実に「テンション」は下がっていると思います。彼らが望むのは牛丼屋チェーンの「破綻」なのです。牛丼屋ガンバレ!
(文責 井上 豊夫)






日付:2004.2.20 題名:金正日将軍の長寿を祈る
1月30日 弊社山本久志君に長男「泰市」君(たいいち)
2月 3日 弊社北村浩司君に長男「健人」君(けんと)
が誕生しました。おめでとうございます。

中国と北朝鮮の国境に丹東市(安東市)という町があり、鴨緑江という河が流れており、河の中心が国境になっています。北朝鮮側の町は新義州で先日北朝鮮に亡命した日本人の女性は鴨緑江の観光船から飛び込んで泳いで新義州側に着いたようです。20年以上前に仕事で丹東に行った事があり、船の上から10メートル先の北朝鮮側の河畔で遊ぶ子供たちを眺めた事があります。まだ金正日氏の父、金日成氏が健在な頃で中国側でも見られる北朝鮮のテレビニュースは朝鮮語は理解できませんでしたがどの項目にも金日成氏が登場したのには呆れました。
 丹東から瀋陽を経由して列車で大連に戻りましたが車内に金日成バッチを付けた四人連れを見かけ、大連で一緒に降りました。大連駅は出迎えの人々でごった返していましたがバッチの四人連れを見かけると人々は小声で「朝鮮人が何をしに来たんだ」とささやきながら「見下した」ような視線を浴びせるのでした。政治的には今以上に中国と北朝鮮は親密な時代でしたが市民ベースでは違う反応が感じられました。
 金日成氏が亡くなり、息子の金正日氏が「偉大なる首領」に就任してからミサイル「テポドン」が飛ぶようになり、日頃自国の安全保証について真剣に考えることがなかった日本人もようやく「自国は自分で守らなくては」と考えるようになりました。以前から憲法9条を改正し「自衛隊を日陰者から正規軍に」すべきと主張してきた者にとっては「神風が吹いた」ようなものでした。
今、もし金正日将軍が暗殺でもされたら再び「元の木阿弥」になり、憲法が改正される日は永遠に到来しないと思います。日本を建て直すには「憲法改正」が不可欠であり、日本を覆う「偽善とごまかし」の根源は「憲法9条の拡大解釈」にあると思います。日本が立ち直れるか否かは金正日将軍にかかっているわけで、もしテポドンが一発でも東京付近に落ちれば日本人の意識は変わる事になると思います。その為には「金正日将軍の長寿を祈る」必要が出てきます。
 間違いなく堕落の道をすべり落ちている日本が踏みとどまれるか否かが敵対的な隣国の指導者に依存しなければいけないことの「皮肉」以上の逆説はないように思います。けれど歴史なんてものは振り返れば所詮これと同じようなもので、第二次世界大戦の後、東欧諸国は長年ソビエトの圧制に苦しめられましたがこれも今考えると、ドイツにヒットラーが出現しなければ「起き得なかった」と思います。近くに「ならず者」が存在する事が時には「プラス」に、時には「マイナス」作用するのだと思えば、金正日将軍が「ふてぶてしく」振舞っているのを見ても許せるようになりませんか?
(文責 井上 豊夫)
日付:2004.2.27 題名:神様の悪戯
1993年夏の夜のことでした。空路青島から上海に戻り空港を出ようとした時、出迎えの人波の中に見覚えのあるKがいました。偶然誰か友達の出迎えに来ているのかと思い、「奇遇だね」と言うと、「あなたを待っていた」と言うのでした。彼女は上海の旅行社に勤める女の子で今回のチケットも彼女が手配してくれたものでしたから、私のスケジュールを知っていて当然でした。空港の近くのホテルをとってあったので取り敢えずホテルまで行き、「迎えてくれて嬉しいのだけど僕と付き合っても意味がないでしょう。夜も遅いから・・・」と言ってタクシー代を渡して帰ってもらいました。当時は中国国内の航空券を手配するのは至難の業でしたが一年前にKと知り合ってからは何の問題もなくなりました。中国に事務所を持たないものにとってはとても有難い存在でした。その内、誕生日に手紙が来て「上海のお寺へ行き、あなたの健康を祈って長寿麺を食べた」と書いてあったあたりから少し気にはなっていました。「今週の話題」の読者の中には「何時も、美女が登場し、何事もなくきれいに別れるなんて信じられない、今後は写真を添付しろ!」と疑われていますがいつも本当の事を書いています。
 今回のKは正直に言うと「美女」ではなく「普通の子」でした。もし、Kが「凄い美女」であったら同じ態度を取ったかと言われると100%の自信はありません。「人は平等である」なんて言いますが現実を見れば、背丈、顔の美醜、肌の色、その他あらゆる部分で「神様の悪戯」のせいか「平等」ではないのです。現在の若い女の子を見ていると「このどうしようもない不平等を何とかすること」にしか興味が無い様に見えます。そして化粧をしようが、髪を染めようが、髪を切ろうが、整形をしようが、「天賦」のものは根本的に変わる事はありません。
 人は「平等」と言いながら日々「差別」をしているのが現実です。人種差別問題が激しい米国を見て、「差別を止めるべきだ」と声高に批判される方がいますが美しい人を大切にすることも「差別」なのだと気付けば「偉そうなこと」は言えなくなると思います。「神様の悪戯」でいろんな「違い」が存在し、知らず知らずの内にあらゆる人々が他人を差別しながら生きているのだという現実を認識すべきだと思います。そうすれば少なくとも自分だけは「人を差別などしたことなどない」などと偽善的な事を言えなくなると思います。「神様の悪戯」のおかげで100%の善人も100%の悪人も存在するわけではなく、「人を差別しない人など存在せず」、良い人も悪いことをし、悪い人も良いことをするのが世の中なのだと学校で教えるべきだと思います。「人は平等」とか「あらゆる差別は悪」などと間違った事を教えるから青少年問題の種は尽きないように思います。
(文責 井上 豊夫)
日付:2004.3.5 題名:本当の友人たち
イラクに自衛隊が派遣され、ニュース番組でその活動が紹介される事が多くなりました。自衛隊のイラク派遣に付いては今まで申してきた通り、私は「反対」ですが同じく反対するほとんどの人々が「自衛隊が嫌いで存在すら認めない反対」なのに対し、私は「自衛隊を愛するが故の反対」である点において根本的に違う事を先ず確認したく思います。
 反対する人々の中には自衛隊員が殺害される事を期待している人もいると思いますが自衛隊員に対してイラクの人々は非常に友好的に見えるのは事実だし、日頃何をしているのか判らない自衛隊が危険な砂漠に宿営地を作り、イラク復興支援の準備をしている姿を国民が見ることで自衛隊に対する理解が増すと思います。「日本はアラブの植民地支配に無縁だった例外的な先進国」(2月22日日本経済新聞)だった上に「日露戦争」で大国ロシアを倒した「日本」は長年国境を接してロシアの脅威を受け続けた国々にとって歴史的英雄だったのです。
 イラクのみならず、トルコ、エジプト、アフガニスタン、イラン、フィンランド、インド、あたりでは「有色人種」が世界史上初めて「白色人種」を破ったことが大きな感銘を与えたのは動かし難い事実なのです。エジプトで少年時代に「日露戦争の日本勝利」を聞いて強い感銘を覚えた前国連事務総長ブトロス・ガリ氏はどんなに多忙でも来日する度に六本木の東郷神社に参拝するそうです。
 トルコには「トーゴー通り(東郷平八郎提督)」「ノギ通り(乃木希典将軍)」が現存しています。フィンランドでは「トーゴービール」が1971年〜1992年まで売られていました。「日露戦争」から100年目の現在でもこれらの国々では「英雄的日本」が語り継がれているのです。現代の何千億円のODAより、100年前の「日露戦争」の方が強いインパクトを与え続けているのだと思います。
 日本には米国以上に「心で繋がった友人」が世界にいることをもっと認識すべきです。2002年のサッカーワールドカップで日本と韓国を破り、トルコが第3位になりましたがそのさわやかな試合は強く印象に残っています。新しい友人「米国」との関係を重視するあまり、「古い友人たち」を失う事のないようにしなくてはなりません。「米国に原爆まで落とされたのに、なぜ日米同盟重視なのか?」(エジプト最大の原理主義組織、ムスリム同胞) 
 今に比べると貧しくとも気品のあった日本が8万4千人の犠牲の上に大国ロシアを破り、その南下政策を阻止した事は多くの日本人が忘れ去っているのにアジア、中近東、北欧の人々の心に強く残っているのです。これらの「本当の友人たち」を裏切らない事こそ「日米同盟」以上に大切な事を再認識すべきだと思います。イラクに派遣された自衛隊が「古き本当の友人の一人であるイラク」との友情を深める事があっても「裏切る事がない」ように祈らずにはいられません。
(文責 井上 豊夫)
日付:2004.3.12 題名:鶏インフルエンザを嗤う
騒ぎ立て、煽ぎ立てることが大好きなわが国の低レベルのマスコミたちは牛丼がなくなったら、「鶏インフルエンザ」に乗り移り、役所への報告が遅れた「浅田農産」を「正義の使者」の如く責め立て、たたき上げの創業者夫婦を自殺に追い込みました。
 冷静に考えてみて下さい。例え異変が起きて「即時報告」をしたとしても役所に何が出来たでしょうか?多分、ほとんど同じ事だったと思います。有効な薬もワクチンも存在しない現状では打つべき手段はないに等しいのです。しかも科学的に見て加熱すれば鶏肉や卵を食べて人に感染することはないそうで、京都に拡大する前には「輸入停止」となっているタイや中国からの加熱用鶏肉の輸入を再開するという新聞記事を見ました。それにも拘らず、京都では25万羽の鶏を全部殺して地中に埋めることになりました。政府、厚生労働省、農林水産省の対応、見解に統一性が全く見られず、一方では「輸入再開」、他方では全量「地中廃棄」全くチグハグで創業者夫婦を自殺させてしまいました。心底から信念を持っているマスコミなら自殺者が出ようが追求の筆を緩めるべきではありませんが信念なき日本のマスコミは自殺者が出ると途端に「沈黙」しだします。偽善の塊のようなマスコミを「沈黙」させるには最も有効な手段が「自殺」だったことはあまりにも皮肉な事です。
 科学的見地から考えれば有効な薬もワクチンも存在しないのなら、25万羽の感染の疑いの濃い鶏の内、発病せず生き残ったものを選別し、「鶏インフルエンザ」に強い抵抗力を持つ個体を繁殖させる事を考えるのが自然ではないでしょうか?ヒステリックになり過ぎるのが日本人の特徴なのかもしれませんが、BSEに対する「日米の感覚の差」を見ても、異常なのは日本の対応の方で米国の対応の方が「まとも」なのだと思います。日本全体が行き過ぎた「潔癖症」になっているのだと思います。意味もなく殺された25万羽の鶏たちの怨念は「鶏インフルエンザ」と共に日本中に拡がりそうです。浅田農産の鶏の「唐揚げ」を食べたく思います。
(文責 井上 豊夫)
日付:2004.3.19 題名:サルでも解る経済学講座No.7「釜の飯(かまのめし)」
14-17/Marまでベトナムのサイゴン、ダナンに行き、大好きな鶏肉入りフォー(ライス麺の湯面)を頼んだらビーフしかないと言われました。

世界の総人口は60億人くらいだそうですが、その内先進国の住人は7億人くらいであろうと推測しております。先進国と非先進国の間に「富の偏在」があるのは現実であり、食料、エネルギー、工業原料などが60億人に行き渡るわけではなく、先進諸国では「肥満が敵であり、ダイエットが最大の関心事になっており」一方、非先進国では「未だに餓死が大きな問題」となっています。学生時代にインドを旅行した時に聞いた「一人のアメリカ人の食料、エネルギー消費量と30人のインド人の消費量が同じ」と言う話が未だ過去のものにはなっていないのが現実です。60億の人々が地球という「釜の飯」を分け合わなければいけないのですが日本のように食料の60%を輸入に依存し,しかも全体の半分を捨てている国があるのに対し、アフリカやアジアの一部には餓死者を出している国々が現存します。
 工業原料も同じことでその大半を先進国が輸入し、消費してきました。今までは一定のバランスが取れており、先進国は安定した値段で原料を享受できました。ところが21世紀に入るとこの安定が崩れ、ひび割れが生じて来たように思います。それは「中国の台頭」です。今までその13億の人々が消費する食料、エネルギー、工業原料は世界のバランスに影響を与える程のものではなかったのですが今は中国の買付けが大きく影響するようになってきました。以前日中貿易統計では中国から日本への輸出トップは原油でしたが今や中国は「原油の大量輸入国」になっています。先進国の中国投資が進み、中国資本の工場建設も続いています。3月10日の日経新聞の「今年1〜2月の中国税関統計」によりますと輸出の伸び率は前年同月比28.7%に対し、輸入の伸び率は42.0%で貿易赤字は2ヶ月で79億ドルとなり、その内原材料の輸入額は64.9%増、数量ベースでも原油が39.4%増、鉄鉱石が36.8%増を記録したそうです。中国の消費が増えるに従い、工業原料、食品、エネルギーの国際価格は軒並み上昇しております。私どもが扱っているタオルの原料である「綿花」「綿糸」も例外ではなく、昨秋に比べ40%以上上昇しているのが現状です。今まで原料の国際価格は一時的に上昇することはあっても必ず戻していたのですが、今回の国際価格の上昇要因が「中国の台頭」であるとすれば「釜の飯」の供給量には限界があることは明白で、今までの経験則は当てはまらないと思います。簡単に言えば7億人で食べていた「釜の飯」に13億人が加わったと考えれば判りやすいと思います。要は「釜の飯」が足りなくなっているのです。特に綿花は畑で栽培するものですから「食料」とも関連が深く、中国政府が抱える大きな問題の一つである「都市部と農村の経済格差の是正」を実現する為には「食料の買上げ価格の上昇」は回避できないところまで来ており、「綿花」のみの価格下落を期待するのは難しいと思います。
 このような状況下で弊社は「競合他社が値上げする中で今まで値上げせず」に参りましたが「5月1日出荷分より値上げ」させて戴くことになりました。何卒御理解下さるようにお願いします。具体的値上げ幅につきましては各担当より4月9日までにはご連絡致します。
(文責 井上 豊夫)
日付:2004.3.26 題名:広州賓館 その1
今週は上海、青島へ行きます。戻る頃には金澤でも桜が咲いていると思われます。

広州賓舘は殊江(パールリバー)のほとり、海殊広場に面した古いホテルです。以前は広州交易会参加の日本人は全員このホテルに泊らざるを得ませんでした。1970年代には未だ大手商社と言えども広州に事務所を持っているところはなく全館日本の交易会参加者貸切状態でホテルというより学生寮みたいなもので私が1976年に初めて泊った頃は部屋の鍵すらなく、いつもドアは開けっぱなしで、パスポートも部屋に置いたままでした。各商社毎にベッド数が決められており、ツインの部屋に一人で泊ることは不可能に近く、20歳代だった私は「知らないオジさん」と名刺を交わして同じ部屋に泊るのが普通でした。中には「いびき」や「歯ぎしり」の人がいたり、帰国の日に夜中の3時から起き出す人がいたりで一人で眠りたいと思ったこともありましたが、日本にいたら聞けない「違う世界の話」を毎晩聞けたことは随分有難いことだったと思います。
いわゆる「友好商社」が幅をきかせていた時代で1976年は周恩来、朱徳、毛沢東が亡くなった年であり、文化大革命が終わり、「四人組」が逮捕された激動の年でもありました。毛沢東語録を読まされることはもうありませんでしたが、商売より「政治」が優先される流れが未だ色濃く残っており、「韓国」とは言えず「南朝鮮」と言わなければならず、「台湾」も腫れ物に触るようで話題には出来ませんでした。「友好商社」の中には「日本」より「毛沢東中国」に忠誠を誓う人も少なくなく、中国の政治スローガン通りに日本で「運動」をやったり、時には「スパイ活動」を行ったりしていたので「友好商社」=「アカ」と言われ、色眼鏡で見られる時代でした。
 ホテルの2階3階がレストランになっており、古い友好商社は交易会の始まる2, 3日前からホテルに入り、テーブルの確保が重要な仕事でした。各テーブルは商社毎に確保され、持ち込んだ醤油や調味料が中心に置かれ、テーブル無き者は食事が出来ない状態でした。広州市内に日本料理店など当時はあろうはずがなく、滞在が長くなると、持ち込んだ「そうめん」を湯がいてもらい、食べているテーブルはまわりから「羨望の目」で見られるのでした。
 当時、私が勤めていた金沢の商社は始めは他の「北陸」の商社3社と一緒のテーブルで食事していましたが同じ合繊織物を売込む競争相手でもあり、食事の度に気を使いました。まだ中国語ができなかったので「会計係」をやれと言われ、人の出入り毎に清算に追われ、中国語が少しできるようになると「注文係」に出世し、十数名分の食事を注文したのですが「足らない」「多すぎる」と毎回文句を言われたり、朝食時に注文すべき「昼食の注文」をし忘れて、慌てて会場から戻ったりで、とうとう一人で食べることにしました。
 レストランの服務員(ウェイトレス、ウェイター)とは仲良くなっていたので片隅に特別テーブルを作ってくれました。外で服務員と逢うなんて「考えられない」時代だったので広州を離れる前夜、彼等の仕事が終わってから街で私が買ってきた「爆竹」や「花火」を玄関で上げて遊んでいました。翌日、香港へ向かう列車の中で、隣の席の日本人が「昨日の夜、うるさかったですねぇ」と話しかけてくるのでした。(つづく) (文責 井上 豊夫)
日付:2004.4.2 題名:広州賓館 その2
伊集院静氏は最近の松井を評して「高倉健に似てきた」と言っているようですがデビルレイズ戦で見事なホームランを打った後のベンチの松井を見ていて僕も「そうだ」と思いました。

1976年、広州賓舘に初めて泊って驚いた事は朝6時ごろにノックもなく、服務員が魔法瓶を持って部屋に黙って入ってくる事でした。プライバシーもなにもあったものではありません。ちゃんといるか、変なことしていないかをチェックする意味合いもあったのでしょうが、その内、慣れっこになって、朝、服務員が入って来ても驚かなくなりました。
 通信が大変不便な時代で国際電話も国内長距離電話も申込み用紙に書き込んで繋がるのを待つしかなく、1,2時間待つこともざらでした。1970年代国際通信の主力は「テレックス」で、今はその姿を見ることもありませんがキーボードを打ってさん孔テープを作り、相手に繋がったらテープを流し、プリンターで印字するもので、直接キーボード同士で打ち合う事も出来、今で言うとウェブサイトの「チャット」みたいなことも出来ました。費用は今のe-mailやfaxに比べると随分高く、一分単位で1000円以上でした。昼食が終わると、大手商社も含めて同じテレックス室に集まり、あらかじめテープを作り、回線が繋がるのを待ちました。連絡事項が多くテープが長くなるとハウスマヌカンのメジャーのように首から下げることが出来るのですが短いテープしかない時は「かっこ悪いな」と思いながら、中国時間午後1:00, 日本時間午後2:00ごろに日本では山名田勇一君(現、重光商事専務)がスタンバイしてくれており、テープを流し合っていました。今この懐かしい部屋は「足裏マッサージ室」になっています。
 このホテルのレストランのウェイトレスに馮玉蘭(フォンユイラン)という女の子がいて彼女の南国人らしい明るさに癒される事が多く、一緒に爆竹や花火をした仲間の一人でした。遅めでしたが結婚し、女の子にも恵まれ良かったと思っていたのですがやがて離婚し、今は女の子を引き取って育てています。少し容色が衰え出すと、1980年代半ばにはレストラン内の会計係になり、やがてシーツなどの洗濯場に回され、今は従業員寮の世話係になっています。十年くらい前、洗濯係の頃に食事に誘った事があり、白天鵝ホテルに行きました。ホテルの玄関には「服装がきちっとしていない人は入ってはいけない」と書いてあり、洗濯場からそのまま来たような彼女の「衣服」が心配でしたが無事「日本料理店」に入れました。食事の後、「家に寄らないか?」と言われ、行ってみると中にたくさんの人が食卓を囲んでいて思わず「挨拶」しそうになりましたがこの一階は別人の住居で彼女の家は急な階段を上がった二階で、幼い娘と母親が待っていました。古いテレビと冷蔵庫以外に家具らしいものはなく、暗い部屋で出された茶碗と急須が広州賓舘で昔使っていた「竹の葉柄」だったので懐かしく思いました。何もない自宅に案内してくれたことが却って嬉しく思いました。「広州も変わったね」と言うと「私の生活は今も500元(約6500円)で、何も変わってはいない」と言うのでした。(1994年頃のお話です)
(文責 井上 豊夫)
日付:2004.4.9 題名:床屋談義
 週末に床屋に行くのが習慣になっており、出張先でも床屋さんに御世話になっています。  
<2004年3月28日夜 青島王朝ホテルの床屋にて>
この床屋には15年前から通っており「老客人(古い客)」なのですが見慣れぬ女の子がやってくれることになり「頭部のマッサージ」を頼んだ所、
<女の子>「全身マッサージの方が気持ちいいよ」(奥のベッドを見せようとする)
<私>  「頭のマッサージでいい」
<女の子>「部屋でも全身マッサージできるよ、部屋番号教えてよ」
<私>  「ここでいいよ」
<女の子>「全身マッサージ135元(1800円), 部屋番号教えてよ」
<私>  「僕は老客人でいつも頭のマッサージなんだ」
<女の子>「あなたはいい人みたいけど、テレビのドラマで見た一世代前の日本人は何故あんなに悪いことしたの?」
<私>  「一世代前の日本人にもいい人もいたし、そうでない人もいた。今の日本人も同じだよ」
<女の子>「あなたはいい人ね。カッコいいわ。(と言って胸を撫で始め)全身マッサージしようよ。部屋番号教えて」

 この話を某大学でのパネルデスカッションで紹介し(部屋番号の所は削除)「今週の話題」2003.12.26「歴史の見方、捉え方」で述べたようなこと、即ち「侵略を許した側の非も非難されるべきだ」との意見を述べました。
同じくパネラーの元三菱商事でマレーシア駐在経験のある某教授はマハティ―ル前首相の「Look East ! (日本に学べ!)」を紹介しながらも「日本は悪い事をしたと言われれば『ごめんなさい』と謝ればいいのです。」とおっしゃいました。この先生はマレーシアを訪問した村山首相に「何故日本はいつまでも謝ってばかりいるのですか?」とマハティールが言ったことをご存知ないのでしょうか?このような先生にこの大学の学生は教えられているのです。
「日本が第二次世界大戦を始めなかったら、アジアは今でも欧米の植民地だったかもしれない」これもマハティールの発言です。
(文責 井上 豊夫)
日付:2004.4.16 題名:レジスタンスとテロリズム
高校の同窓生、尾山碧さんからのリレーで地元FM局のラジオ番組「MUSIC IN MY HEART」に出演することになり、先日、録音収録がありました。たった5分間の番組の上に話しが流れるのは1.5分だそうで聴いて頂ける可能性は限りなくゼロに近い」と思われますが小生の後は吉川義一君にリレーされます。放送日は本人に御確認下さい。
井上分放送予定 4月24日(土) 5:55pm〜6:00pm エフエム石川

「テロリストを殲滅する」と言って米国は「手を出さなかった」イラクに攻め入りました。軍事的には短時間でフセイン政権を倒し、米国はこれを「解放」と呼びましたが、私にはどうしても「侵略」にしか見えませんでした。(「今週の話題」2003.4.11 「解放とは何か?」を御参照下さい。)
「欧米のアジア植民地を解放する」と言ってかつての日本は真珠湾を攻撃し、米国はこれを「侵略」と見做し、太平洋戦争は始まりました。
第二次世界大戦中、ナチスドイツに占領されたフランスではレジスタンス運動がナチスに激しく抵抗し、その指導者ド・ゴールは戦後大統領に就任しました。ド・ゴールたちが行ったレジスタンス運動と今、イラクで展開されている反米抵抗運動は抵抗する相手こそ違いますが、同じように見えます。かつてのフランス抵抗運動は「レジスタンス」と呼ばれ、英雄視されており、イラク抵抗運動は「テロリズム」と呼ばれ、危険視されています。勝てば英雄,負ければテロリストなのでしょうか?
 そのイラクの抵抗運動に巻込まれ、日本人が合わせて5名拉致されています。拉致被害者の家族がヒステリックに政府に「自衛隊の撤退」を要求して連日メディアに訴えています。海岸を歩いていただけで北朝鮮に「拉致」された人々と違い、危険である事を「百も承知で」イラクに入国した5名は全く違い、「拉致」は十分予想された事でした。印象的だったのはNGO運動家の女性家族の内、両親はとても良識をわきまえた方たちでその発言に「感心させられました」がその妹と弟のヒステリックな発言は「戦後教育のひずみ」そのものだと感じました。もし、私の家族に同じような事が起きたら「お騒がせし、ご心配をお掛けし、申し訳ありません」とだけ言おうと思います。
 軍事的に圧倒的に差があり、今回のように、一方的に外国軍(米英)が侵入し、支配している場合外国人の拉致も含めて、あらゆる手段で抵抗する権利は認められるべきだし、「平和ボケ」の日本人には必要な警鐘であったと思います。
「自分の身は自分で守る」しかないことを教わったように思います。
反論を歓迎致します。
(文責 井上 豊夫)

追記 : メールを流した夜に3人の人質は解放されました。繰返し流れる「アルジャジーラ放送」を見ていると解放にあたり大変御世話になった「聖職者協会」のクベイシ氏と挨拶する場面で、カメラマンの郡山氏はタバコ片手に立ち上がりそのまま握手しようとし、注意を受け、劣化ウラン反対運動の今井氏はソファーに座ったまま握手しようとする始末で「こんな連中は帰ってこなくていい」と感じたのは私だけでしょうか?
日付:2004.4.23 題名:天国と地獄
春になると自殺者や不登校の子供が増えるそうです。彼らにとってきっと現代は地獄なのでしょう。2年半前に88歳で亡くなった義母は大変面白い人で多くのことを学んだように今でも思っていますが、彼女は「時々極楽というのは死んでからの世界ではなく『今、現在』のように思うことがある」と言った事がありました。歳を重ねても様々なことに興味を持ち、ニュースは欠かさず見るし、株をやっていたので新聞の経済欄にも大層詳しく、株で儲かっている時は勿論機嫌が良く、娘たちに小遣いや品物を買い与えたりしていましたが、株の低迷期が長引いた時には借りていた小さな畑で「野菜作り」に没頭し、育てている苗に朝夕本当に「語りかけて」株の損など忘れて、機嫌良くしていました。
そして決して強がりではなく、この世を『極楽』と感じていたのだと思います。
 
最近、社員が「こんにちは バイマーヤンジンです」(致知出版)という本を貸してくれたので読んでみました。バイマーヤンジンさんはチベット出身で日本人のご主人を持つ歌手です。「チベット人が夢の中で描いている天国というのは、いまの日本そのものです。四季があって、緑があって、食べ物のことも着るもののこともしんぱいしないでいられる。努力すれば、自分のやりたいことができる。これが天国なんです。私は最初、苦労をするつもりで日本に来たのに、こんなすばらしい国とは夢にも思いませんでした。天国のようなところに連れてきてくれた主人には本当に感謝の気持ちでいっぱいでした。また私はこんないいところで暮らしている人は、悩みなど持っていないんだろう思いました。もし悩みがあると言ったら、私たちチベット人から見ると、許せないような感じでした」

彼女の両親は文盲で、彼女は大学に入るために猛勉強し、夜、高校の寮が十時で消灯になるのでそれ以降は小さな電球のついている公衆トイレで勉強したそうです。

 「経済的豊かさ」は人を本当に幸せにするのでしょうか?「貧乏」が箱に入れて「輸入」できるものなら、きっと売れるように思うのは「卑しい商人的発想」でしょうか?

 以前、テレビで見たベトナム、ホーチミン市の3区に住み、古いアルミニューム製品を家に作った釜で熔かしてアルミニューム棒を作っている一家では、家が貧しくて男女二人の子供は学校に行けず、毎日、両親の仕事を「ドロンコ」になって手伝い、夕方には二人が夕食まで作るのでした。ご飯はあるのですが、おかずは「卵一個」だけで、解いた卵で薄い,薄い大きな卵焼きを作り、祖母を含めて五人でケンカもせずわけあって食べるのでした。近所には同じような子供が多く、自宅を開放して週に二日ある「夜塾」に行くのがこの二人には何よりも「楽しい」ことで、「登校拒否」はあり得ない世界でした。二人の子供に「大きくなったら何をしたいか?」と聞くと「両親を幸せにしてあげたい」と答えるのでした。
(文責 井上 豊夫)
日付:2004.4.30 題名:キリギリス生活
国民年金に未加入であった大臣が7名もいた上に、「未納三兄弟」と強烈に批判していた民主党党首までもが「同じ」だったことが判明して大騒ぎです。この割合からすれば国会議員全体では200名以上が「同じ穴のムジナ」なんだろうと思います。「所詮、国会議員なんてこんなものだ」と思っているのでこのことを取り上げてここで批判するつもりはありません。
 私は「年金」にしろ、「健康保険」にしろ「全員加入義務」となっていることの方が問題だと思います。最近の人質事件で「自己責任」が取り沙汰されていますが「自己責任」とは人質事件だけでなく、社会人となった以上「年金」にも「健康保険」にも言える事だと思います。私は「年金」も「健康保険」も現在の「強制加入」ではなく「選択方式」にすべきだと思っています。
 「年金」を払うのが嫌な人には「払わなくて良い」こととし、その代わり高齢になっても「年金」を貰えなくても文句は言わないことを約束してもらう。
 「健康保険」も嫌な人は脱退できるようにして、万一病気になって毎月の診療費用が200〜300万円になっても「黙って支払う」ことを約束してもらう。イソップ童話にあった、今さえ良ければ良いとする「キリギリス的生活」をも認めるべきだと思います。「年金」にも加入せず、「健康保険」にも入らず、「国家の保護をも一切拒否する」ほうが「国家の存在を否定し、自らを市民と規定し」子供たちに教育している多くの教師や市民運動家たちには「思想的論理一貫性」があるのではないでしょうか?「国家を否定」しながら「年金」や「健康保険」にすがることに矛盾を感じないほどに彼らは「鈍感」なのでしょう。

 今回の人質事件で「日頃、国家に盾付いている連中」でも「国家はいざという時には保護するのだ」ということが判ったと思います。人質となろうとも国家の保護を拒否することも「自由な選択肢の一つ」です。私が理想と思う「選択肢のある社会」とは国家の年金、健康保険を廃止し、民間保険会社の「年金」「健康保険」に任意加入として、将来「どうなってもいい」人々は入らなくても良いようにすることこそ究極の「自己責任」だと思います。今でも国民年金を未払いの人が40%いる現実の裏には「将来、国がなんとかしてくれるだろう、いざとなれば生活保護もらえばいい」くらいに考えているのだと思います。この際はっきり任意にして「自己責任」を問うべきだと思います。年齢は重ねても「幼児性」が抜けきらない現代の多くの日本人も「選択肢のある社会」にすれば今よりは「しっかり」するように思うのは私だけでしょうか?
(文責 井上 豊夫)
日付:2004.5.7 題名:狩猟民族と農耕民族
5月1日から、新価格を実施させて戴きました。
値上りしたもの、変化のないもの、値下げしたものなど様々なので恐れ入りますが、価格表をご熟読戴き、倍旧のご注文を御待ちします。

今はタオルを本業としていますが、以前20歳代に合繊織物の輸出を本業にしていた頃「『商社』の仕事は『狩猟民族的』であり、食べきれないほどの餌があるかと思えば、時には何日も全く食べる物がないこともある。一方、『農耕民族的』仕事の代表例は『銀行』であり、毎年春に同じ畑に種を蒔き、秋に収穫する」と聞いた事があり、自分の仕事が『狩猟民族的』であることに妙に陶酔していました。

あれから30年近い年月が過ぎ、今は取扱い商品が「タオル」になり、しかも自社企画品が主流を占めるようになっているので、『狩猟民族的』と思っていた自分の仕事が何時の間にか正に『農耕民族的』になっていることに気がつきました。同じ「タオル」を扱っていても法人の「特需」を狙っている人々などはどう考えても『狩猟民族的』に見えます。業界用語で「せんみつ」といいます。「特需」は「千」引き合いがあれば決まるのは「三つ」くらいという意味です。「特需」はロットが大きい事が多いので、万一決まれば数千万円の売上となることもあり得ますが、金額が大きくても弊社は「値引き」しないようにしているので、「『せんみつ』どころか『まんみつ』」くらいしか決まる事がありません。ですから、今『狩猟民族的』商売をわれわれがメインにやっていたら待っているのは「餓死」だと思います。『狩猟民族的』のハンティングが「かっこいい」と昔は思いましたが、本当に力を発揮するのは『農耕民族的』手法であって、地味ですがひとつひとつアイデアを企画に移し、製品化し、日々の小さな売上げの積み重ねで最終的には大きな結果を出す方が、「地力」が付いてくるし、評判が良ければ「リピーター」も期待できます。
 以前、何回か『狩猟民族的』受注を受けた事がありました。この場合、価格決定権、商品の企画、デリバリーなど全てにおいて「客に決定権」があり、われわれがなすべきことは「ただひたすら、客の要求に従順である」ことだけです。時々、「奴隷じゃないよ」と言いたくなるような場面に出くわすことになります。今、振り返ると「よく、あんなに危ない橋を渡ったものだ」とゾッとすることも沢山ありました。理想を言えば、何度か「奴隷状態」を経験し、『狩猟民族的』商売の「むなしさ」を痛感した上で、『農耕民族的』手法の大切さを実感する事だと思います。『狩猟民族的』商売をできないのでなく、できるのだけど敢えて「農耕民族的」手法を最終的に選択すべきだと思います。一見、派手で「かっこよく」見える「狩猟民族」より、地味で、「不格好」でも本当に強いのは「農耕民族」なのだと思う今日この頃です。
(文責 井上 豊夫)
日付:2004.5.14 題名:一般常識
弊社周辺のアカシアの花が咲き出しました。
今週末は見頃だと思います。お運び下さい。

5月12日に入社試験を行いました。
一般常識問題の一部を転載致します。何点取れるかトライして見ませんか?

(1) 1959年( ) で ( ) の指導により革命に成功したが、アメリカは( ) 政権に対し、強硬な態度を取り、( ) のミサイル基地建設問題では世界戦争の危機にまで発展した。

(2) アメリカは南( ) の解放民族戦線の掃討のため、大軍を送り込んだが敗北し( ) 和平協定にもとづき撤退した。

(3) 国連の ( ) 分割決議にもとづき ( ) が建国されたが、アラブ諸国は認めず、中東戦争が起きた。その後、( ) 難民の組織としてPLOが活動している。

(4) 中国では「文化大革命」により国家主席の ( ) が失脚した。しかし、その後、文化大革命の指導者は「四人組」として逮捕され、一度、文化大革命で失脚した ( ) が最高権力者となった。

ア. パレスチナ イ. キューバ ウ. ヴェトナム エ. 毛沢東 オ. パリ  カ. ソ連  キ. 小平  ク. イスラエル ケ. カストロ  コ. ジュネーブ  サ. 劉少奇

この問題の正解率はどのくらいだと思われますか?
16名の受験者中、日本人受験者11名の正解率 37% 中国人受験者 5名の正解率 65%

日本人の回答を見ていると「日本の将来は暗い」と思わざるを得ませんでした。
外国語はかなりのレベルに達している学生での答えの一例です。

受験生の解答例 : ア サ ケ イ コ カ オ ク ウ キ エ
2箇所だけが正解です。

このような歴史認識では「歴史に関して」話合うベースそのものが「欠落」しており、このような若者が現代日本で大半を占めると思うとこちらが落ち込みそうになります。彼らが生まれる前の事だから「知らなくてもしょうがない」という意見もありますが、中国人受験者の正解率が日本人の2倍となっている現実を見ると説得力がありません。最高点は11問中10問正解、勿論中国人の受験生でした。「今週の話題」読者からの「高得点報告」を御待ちしますので自己採点結果、御教え下さい。日本は大丈夫」と信じさせて下さい。

正解 : イ ケ ケ カ ウ オ ア ク ア サ キ 

(文責 井上 豊夫)
日付:2004.5.21 題名:皇室のあるべき姿
先週号の「一般常識問題」に得点結果たくさんの方から戴き感謝します。11問満点は畏友、本田純一君でした。

皇太子殿下のご発言が話題になっており、外遊からご帰国後には更に問題になるのかも知れません。皆さんのご理解を得られないことを覚悟の上、私の考える「皇室のあるべき姿」について申し述べたいと思います。
 今上陛下(現天皇)が皇太子であられた頃、敗戦前の日本では「皇太子は国民全体の為の存在である」として、幼くしてご両親から離されて教育を受けられ、「大変寂しい思いをした」とご本人が述べられております。敗戦後には米国占領軍下で敬虔なクリスチャンであったバイニング夫人が教育係として来日し、米国流の教育を受けられた皇太子殿下は民間人と結婚し、週刊誌のグラビアを飾り、「幸せな家庭の象徴」として「開かれた皇室」を理想として皇室の存在が国民に身近なものとなるようお努めになりました。そのご長男としてお生まれになった現皇太子殿下も同じく「開かれた皇室」を更に「開かれたもの」にすべく、英国に留学され英国王室と親交を深めていかれました。そして父君であられる今上陛下に習い悪名高き外務官僚であった民間人と結婚され、メディアの前で幼子を負ぶってお見せになるなど「みんなと一緒であること」を強調されました。外務省と言う役所は古くから「裏金作り」に全体で励んでおり、その一部が見え始めた所で外務大臣は更迭され、「うやむや」になりました。現皇太子妃の父君は外務省の最高幹部であったので「外務省の裏金作り」の責任は当然あるものと思われます。現皇太子妃も同じく「汚染された外務省」にいたキャリアだったので責任が全く無かったとは言えないと思います。ただ国民及び政府「惻隠の情」でこの事をつまびらかにしようとしていないだけなのだと思います。皇太子殿下が「雅子妃殿下の外務省での経験とキャリア」を主張されているのを聞くと私が今述べたようなことを皇太子殿下は全くお気付きになっていないのではないかと思ってしまいます。
 敗戦後、宮内庁は英国王室を「開かれた王室」の理想として、皇族の留学先としてきましたが、「ダイアナ妃の離婚、事故死」が起こり、とても「理想」と程遠いことが明らかになって来ました。日本の皇室が英国に学ぶ点があるとすれば「英国の王子たちが必ず英国軍に入っている」事だと思います。日本の皇室も英国留学の代りに自衛隊に入り、自衛隊を「日陰者」から「名誉ある存在」にすべきだと思います。そして「開かれた皇室」ではなく、日頃は国民の前に必要以上に出ることなく、皇居で春には「稲の苗を御手植え」され、秋には「収穫を神に捧げる」などあらゆる神事を伝統に従い、執り行って戴きたいと思います。皇室は最高の「神職」として、常に宮中にて国民の幸福と国家の繁栄を祈って戴く存在であり、決して幼子をメディアの前で負ぶってお見せになることの無いようにして戴きたいと思います。ご尊顔をメディアで拝せなくとも、皇室は国民を思い、国民は皇室を思う本来の正しい関係を構築すべきだと思います。その為には皇室の方々が今より窮屈に御感じになられるかもしれませんが、それは致し方ないことだと思います。日本の文化、歴史、伝統の全体性の中心として皇室が永遠にご繁栄されることを希望します。冒頭に述べたように、「皆さんのご理解を得られないことを覚悟の上」、思うことを述べさせてもらいました。
(文責 井上 豊夫)
日付:2004.5.28 題名:社会主義教育
 連日北朝鮮から帰国した五人の子供たちの話題で持ち切りです。画面で見る限りですが、北朝鮮で「反日教育」を受けて育ったと思われる彼らは利発で賢そうに見えました。横田めぐみさんの娘とされる「キムヘギョンさん」もインタビューを見る限り、大変「しっかりした」中学生でした。
 日頃、仕事で中国人と付き合う機会が多いのですが、最近の日本人の若者に比べると随分しっかりしていると感じます。貿易をしているのでわれわれが接する中国人のレベルが平均より高いのかも知れませんが、このままでは日本は「ダメになる」との危機感を持たざるを得ません。 先々週号の「今週の話題」で御紹介したように、同じ歴史問題での正解率が日本人は中国人の半分でした。
最近の日本人の若者は知識が不足しているだけでなく、「他人と如何接したら良いのか」が判らず、「引きこもり」や「家庭内暴力」が後を絶ちません。引きこもらないまでも「メール依存症」で携帯電話なしでは落ち着けない子供も多く見られます。
 何故、社会主義国家の教育の方がうまく行っているかを考えてみました。大学生活で最も違うのは中国では全寮制が多く、8人部屋で4年間生活を共にする事で卒業の時には「兄弟以上の友情」で結ばれる事も多いようです。日本の大学生は「バス、トイレ付き一人住まい」を希望し、来るはずもない「彼女の来訪」を夢見て、4年間を過ごします。先日、上海の若い女の子に聞いたところでは大学時代、寮の8人部屋で「毎晩長時間語り合った」のが今までの人生で最も楽しいことだったそうです。
 最近の中国では急速に増えつつある「富裕層」の子弟が通う通称「貴族学校」は幼稚園から全寮制で親元の近くなら、週末のみ自宅に帰る生活のようです。今回の北朝鮮から帰った子供たちも「エリート教育」を受けていたので親と暮らすのは「夏休み」と「冬休み」くらいだったようです。幼いときから親から離れ、寮生活をすれば「自立」できるのは当たり前のように思います。日本では、幾つになっても「親離れできない子供」と「子離れできない親」の元で、他人と接する事が苦手な若者が増えています。
 日本でも昔のナンバースクール、旧制高等学校では全寮制で多くの優秀な学生を輩出しました。少子化が進み、学校経営も大変な時代が既に到来していますが、期待されるのは「全寮制教育」以外にないのではないかと思っています。
(文責 井上 豊夫)
日付:2004.6.4 題名:娼婦と妾
21年前、今の会社を作った時に専務と話合った事柄のひとつに「娼婦と妾」がありました。これから作る会社を将来誰かの「お妾さん」のような会社にせず、「娼婦」のような会社にしなくてはいけないと思いました。「お妾さん」は決まった「旦那」から毎月決まった「御手当て」をもらい、生きて行きますが、「娼婦」はその日、その日の客を自分で見付けなければならないのです。
「お妾さん」は日々の暮らしは安定しますが、「緊張感が欠如」してしまい化粧もおろそかになって行きます。
私が以前いた会社は「お妾さん体質」の会社で、仕入先であり、販売先でもある合繊メーカーに対し、ひたすら恭順な態度で接待に努め、「御手当て」の減額が無いようにしていましたが、日々の緊張感はなく、自立できない体質の会社になってしまいました。今も存在しますが、実態のない会社になってしまいました。
 新しく自分たちで作った会社は、小さくとも自立し、日々緊張感を持ち、「娼婦」のように「今夜の獲物は自分で見付ける」気持で成長させなくてはいけないと考えました。「娼婦」は常に緊張感を持って勝負するわけで、化粧にも手抜きはあり得ません。
 世の中には一見優良企業でも、その実態が「親会社」、もしくは「系列」に何とか「ぶら下がり」生きて行こうとする「お妾さん会社」が決して少なくありません。

以前の中国には「娼婦」はいませんでしたが、現在の中国には「娼婦」らしき「女の子」がいます。昔、私が中国語を教わった女の先生は「毛沢東中国」を心から愛していたので、中国に初めて「乞食」と「娼婦」が現れたと聞いて「一晩眠れなかった」そうですが、私は「乞食」も「娼婦」もいる社会の方が自然で馴染みやすく思います。

現在の中国のホテルで夜エレベーターに一人で乗ろうとすると、「娼婦」が追いかけてきて乗り込んで来る事があります。ドアが閉まり、髪の長い女の子が私に背中を向けて黙って立っています。私の部屋があるフロアーのランプだけが点いたエレベーターが動き出します。彼女の背中を見ながら、「今、彼女はどんな気持なのだろう?」と想像をめぐらします。やがてエレベーターが止まり、ドアが開くと彼女も一緒に降りて私の後ろを追いて来ます。そして私に「マッサージしませんか?」と中国語で声を掛けて来ます。「いらない」と断っているのに私の部屋の前まで来ると彼女は部屋のドアに背中を持たせ掛け、必死に訴え掛けます。ドアを開けると彼女が自動的に部屋に入ることになります。彼女をドアから剥がすようにすると、「水だけ飲まして!飲んだら帰るから」と言うのです。一瞬気持がぐらつきましたが、彼女を強引に剥がしてやっと部屋に入りました。部屋に入った私は外に残された彼女が「今どんな気持だろう?」と思いながら、京都弁で言えば「おきばりやっしゃー」と心の中で彼女に声を掛けるのでした。
「娼婦万歳!」

(文責 井上 豊夫)
日付:2004.6.11 題名:ムハマド君
 視力回復の為にイラクから少年が来日して、手術を受けるそうです。以前にもロシアから白人の「可愛い」少年が確か心臓病の治療の為に来日し、ニュースで報道され、話題になったことがありました。全国から「可哀そう」との同情が湧き上がり、3000万円の「善意の寄付」が集まりました。そのお金がどうなったかは知りませんが、きっと今回は「可愛い」以外に「戦争被害者」という背景が加わっていますので、ロシアの少年以上のものが「集まりそう」です。
 心臓病や目を負傷していて十分な治療を受けられない少年少女は世界中に何十万人といると思います。そんな境遇の人々がいることを薄々知りながら「対岸の火事」と無視して日々の生活を楽しみ、海外旅行に出掛けたりして日本人は楽しんでいるのです。そしてニュースでたまたま紹介された「マハマド君」を見て、「可哀そう」と「寄付金」を送り、「自己満足」することは果して意味のあることなのでしょうか?
 学生時代に一人で3週間余り「インド旅行」をした時に感じたのも同じようなことでした。何の罪もない多くの子供が素っ裸でカルカッタの路上で生活をしており、その中には栄養失調が進み、腹が異常に膨らんでいる子供がたくさんいました。当時、いかに貧乏旅行者とはいえ、目の前の数人の子供を一時的に「飢餓」から救うことは出来たと思いますが、目の前の数人以外にカルカッタだけでも何万人もの「栄養失調の子供」がいるわけで、一人に10円づつ渡しただけでも私は「乞食の仲間入り」するしかありませんでした。
 結局、その時私が選択せざるを得なかったのは「僕は乞食になりたくないので、君たちは死んでくれ、僕は生きる」でした。今日本にいるとカルカッタの「飢餓少年少女」を目にすることはないので、遠い昔の「思い出話」として書かせてもらっているだけですが、世界の中には今も同じような状況に置かれた子供が数十万、数百万いることでしょう。
 私が通った大学にはイエズス会から派遣された外国人神父の先生が百人以上いて、大学内の宿舎(カトリック神父は結婚しないので独身寮)で生活し、毎月支給される「給与」から生活に必要な最低限のものを差し引いた残りを大学に「寄付」していました。御蔭で私立大学でありながら格別高い授業料を取らずに、国立大学以上に教員一人あたりの学生数が少ない教育が今も続いています。世界中の飢餓少年少女に対し、偽善的ではなく接することができるのはカトリック神父のような生き方をしている人だけのように思えます。
 「マハマド君」の視力が回復することを私も願っていますが、彼以上に悲惨な状況にいる子供たちがたくさん存在することを忘れては行けません。毎月の収入の大半を「寄付」することが出来なくても、少なくとも払うべき「税金」をごまかしたり、食べ物を粗末にせず、茶碗にご飯粒を一粒も残さないことから始めようではありませんか!
(文責 井上 豊夫)
日付:2004.6.18 題名:悋気、嫉妬、ジェラシー
 辞書にはこのように書いてあります。

悋気(りんき) : ねたむこと。特に情事に関する嫉妬

嫉妬    : 自分より優れた者をねたみそねむこと

ジェラシー : Jealousy 嫉妬、ねたみ、やきもち、怨恨

 このような感情は主に異性間と思われがちですが、同性間の「嫉妬」も強烈なものがあります。人間に限らず、動物にも同じような感情があるものと思われます。以前犬を飼っていた時、飼い主がよその子供を抱いたりすると犬は猛烈に嫉妬し、吠えて怒りました。現代の若者たちが抱える悩みの8割はこの「嫉妬」によるものと言っても良いように思います。異性間の場合、「嫉妬」は「愛情」の裏返しであり、「愛しているからこそ、嫉妬するのだ」と一般には信じられています。
 私が住んでいる金澤では、土曜日の11時から「恋のからさわぎ」という明石家さんま司会の軽薄番組があり、若い素人の女の子がたくさん出演しています。自分では「可愛い」と思っている「バカ女揃い」ですが、その中に武久美雪さんという28歳の女の子が今出ていて、「美しい」上に、発言内容がユニークで印象に残りました。残念なのは今、同じ時間帯で「花へんろ」「新花へんろ」の再放送をNHK BS1でやっているので、最近彼女を見ることが出来ないのですが、以前見て印象深かったのは次のような内容だったと思います。
 「自分の彼氏が自分以外の女の子と会って関係を持ったと判ったら、私はその人にお礼を言います。だってその時、私がしてあげられないことを私が好きな彼にしてもらったんだから」。そして前後の脈絡が完全ではありませんが「人と人が本当にお互いに好きになれるなんて滅多にないんだから」と言う発言も印象に残りました。
 私は自分の耳を疑いました。私には他のどの出演者より「美しい」彼女が「悋気」も「嫉妬」も超越した意見をごく自然に語っていたのです。もし彼女のような気持になれたとしたら、世の中の「軽薄な恋の悩み」などほとんど霧散してしまいそうです。聖母マリアが「処女のままキリストを生んだ」ということを信じるように、彼女の発言に嘘がないとすれば、「嫉妬」という卑しい感情から「解放」された人を初めて見たように思いました。彼女がどのようにして今の考え方に行き着いたか知る由もありませんが本当にそう思えるなら、「嫉妬」に苦しみ、眠れぬ夜を過ごすこととは無縁で、幸せになれるのでしょう。他の出演者にはない「美しさ」を彼女に感じるのは彼女の考え方と関係があると思います。「花へんろ」のお陰でその後の彼女の発言は知りませんが、どなたかご存知の方があれば教えて下さい。
(文責 井上 豊夫)
日付:2004.6.25 題名:中国タオルとの出会い その1
1976年(昭和51年)秋、初めて中国広州へ行くことになりました。未だ広州への直行便が無く、香港で一泊して鉄道で中国に入る方法しかありませんでした。
広州へ行く者は香港でも全員「ミラマーホテル」に泊まり、団体旅行者のようにして九龍駅から列車で「羅湖駅」まで行き、国境を流れる小さな川に掛かる橋を歩いて渡り、中国側の「深せん駅」に到着し、税関の検査を受けることになっていました。この頃の中国は「文化大革命」のイメージが強く、政治色が色濃く残っていましたので、私はささやかな抵抗として、トランクに「日の丸」のシールを貼り付けていました。そのトランクを持った私が「深せん」に着くと聞き覚えのある音楽が聞こえてきました。それは学生時代に左翼学生が好んで歌った「インターナショナル」でした。今でも「ああーインターナショナル我等のもの」という最後の部分は今でも耳に残っていますがそのメロディーが聞こえてきたので、「社会主義国に来た!」と感じることが出来ました。
 入国手続きが終わると昼食を取り、一休みしてから午後になって列車に乗り込み広州に向かうのでした。朝、香港のホテルを出て夕方、広州のホテルに着くまで一日仕事でした。交易会に参加した日本人は全員「広州賓舘」に泊る事になっており、ホテルの中は全員「日本人」でした。このころ幅を利かせていたのは所謂古い「友好商社」で心情的にも「毛沢東中国」に感情移入しているような人が多く見られました。中には日本国内で中国政府の考えに従い活動をしたり、場合によっては「スパイ活動」もあったようです。
 この頃は到着した外国人のパスポートは取り上げられ、その地区の公安局の確認印をもらってから、4-5日後に返してもらえるシステムでした。一人で部屋に泊ることはほとんど無理で、連れが無くても知らない人と「相部屋」になるのでした。現在では「車の渋滞」が大きな問題になっていますが、この時代は交易会が始まる前に他の省からも乗用車をかき集め、臨時の「タクシー」として使っていました。勿論料金メーターなどあるはずも無く、ホテルから会場は2.5元のように大体決まっており、交差点には信号があるのですが、外国人が乗っている車が来ると警察官が信号を青に変えてくれてるほど車は少ない時代でした。当時は中国語を全く話せなかったのですが、タクシーで会場に行く時に正門ではなく、西門の方が私の仕事の関係ブースに近かったので、「到西門(タオシーメン)」と言ったのがニーハオ以外に初めて喋った中国語だったように思います。
(文責 井上 豊夫)
日付:2004.7.2 題名:上海と東京
 先週は前半上海、後半が東京でした。破竹の勢いで発展していると言われている上海に徐家淮(シュイジャーホエ)(ホエと言う字は正しくありません。クニガマエの右が空いたものをサンズイの横に加えたのが正しい字です)という繁華街があり、百貨店が何店か集中しています。待ち合わせには時間があったのでその中の一軒、太平洋百貨店に入ってみました。上海の百貨店と言えば少し前まで南京路の第一百貨店が代表的で、No.1の集客力を誇っており、休日には30万人入ると言われた時期があり、一階のフロワーは満員電車のようでしたが、日本の百貨店に比べると暗く、商品も見劣りしていました。
 今回入った太平洋百貨店は中流クラスと言われるレベルのようですが、明るく、婦人服売り場の商品は種類も豊富でとてもファッショナブルでした。満員電車のようではありませんが客も多く、特に若く美しい人がたくさんショッピングを楽しんでいるように感じました。単価を見ると決して安くありません。
日本でも流行っているレース付きの商品や裾がジグザグになったスカートが並んでいました。ジーンズの生地で作った40cmくらいしか丈がないスカートが人民元398(約6000円)でした。社会主義経済体制の頃の中国では、少品種で選択できる色、サイズも極めて限定されていましたが、今は色のバリュエーションも豊富で、日本の百貨店以上に種類も量もあるようにかんじました。
 東京でも銀座の百貨店を何軒か見てみました。平日の午後なのに客は予想以上に多く、賑わっていました。婦人服売り場へ行き、同じようなジーンズのスカートを探すと、上海と同じようにわざと生地をストーンウォッシュしたスカートがありました。価格は7350円(消費税込み)でした。少し東京の方が高いので妙に安心しましたが大差はありません。
 「安物の既製服」を中国から輸入し、日本で作った「高級品」を中国へ輸出している業者がいるのが現実ですが、上海の購買力の底力はもうここまできていることを見とめざるを得ません。来年から中国から「輸出枠」で縛られていた多くの商品が欧米向けに自由化されます。更に中国品が世界のマーケットに流れ込むスピードに拍車が掛かりそうです。
(文責 井上 豊夫)
日付:2004.7.9 題名:謝罪
 日本人が二言目には「すいません」と言うのは外国人には奇異に映る様です。
レストランなどでウエイトレスを呼ぶ時にまで「すいません」と言ったりします。中国に行き始めた頃、中国語には「謝罪」の言葉がないのかと感じました。実際には「対不起(トイプチー)」「抱歉(パオチェン)」「不好意思(プーハオイース)」などいろんな言い方があるのですが、覚えたのはかなり経ってからだったように思います。以前の中国人はなかなか「謝罪」の言葉を口にしませんでした。
 現在でも先月青島へ行き、工場の責任者に6月21日朝一番のアポイントを事前に取っていました。責任者は6月20日に出張先の米国から帰国するので大丈夫とのことでした。約束の前日の夜、責任者の部下から電話があり、「まだ青島に戻っていないようだ」との連絡があり、「朝から会うことは不可能だ」と言われ、翌朝本人の携帯に電話すると、まだ北京におり、青島着は午後3時になりそうだと言われました。私が青島を離れるフライトが午後4時15分だったので空港で会うことになりました。結局会えたので所期の目的は果せたのですが、不思議に感じたのは約束通りには会えなかったのですから、日本なら「ごめんなさい」「申し訳ない」を十回以上繰返したに違いありません。かれらからは一度も「謝罪」の言葉がありませんでした。空港で会えることになった時、「有縁分(ヨウユアンフェン)」(縁がありますねぇー)とは言われましたが決して「ごめん」とは言われませんでした。約束をして、どんな事情にせよその時間に会えなかったのですから、謝れば良さそうなものだと思いますが、一言も謝罪せずに「何事もなかったように」全てが済んだことに感心させられました。
 日本では何も悪いことをしていなくても、言葉の「つなぎ、接続詞みたいに」「すいません」が連発されます。広島の原爆ドームの記念碑には、原爆を作り、落としたのはアメリカで、多数の死者、被害者が出たのは日本人だったのに「過ちは繰返しません」と碑文に刻んであります。この文章の主語は誰なのでしょうか? もし、「私たち(日本人)」が主語なら、原爆を落とされたのも「日本の責任」となるのだろうと思います。もし「私たち(アメリカ人)」が主語なら何時、何処でアメリカは原爆投下を「悔やんだ」のでしょうか?寡聞にして私は聞いた事がありません。安易な「謝罪」の習慣を止める事から始めなくてはなりません。
 欧米人は「ちょっと体が触れただけでも『Excuse me !』とか『I’m sorry』と 言うのに、本当に謝るべき時にはなかなか自分の非を認めようとしない」と聞いた事があります。民家が隣接するゴルフ場でミスショットが窓ガラスを割ったとしても絶対に「I’m sorry !」と言っては行けないと聞いたこともありました。外国との交渉にあたる外務省の御役人たちにも安易に「ごめん」なんて「言うんじゃないよ」と声を掛けたくなります。
(文責 井上 豊夫)

日付:2004.7.16 題名:目的と手段
ブータン国王はGNP(Gross National Product)よりもGNH(Gross National Happiness)の向上を目標として国政を行っており、GNPも毎年約7%の伸びで安定した成長を遂げているそうです。Happinessを追求するにはある程度の経済的安定がその背景に必要なのは当然としても、経済成長のみが高水準であってもその国民が「幸福」を実感できなければ意味のない事だと思います。日本が「バブル期」にあった1980年代の後半、東京に小さくても自分の住居を(たとえ、マンションであっても)持っていたら一億円以上の財産となった時代がありました。その頃、東京に自前の不動産を持っていた人々がみんな幸せであったかどうかと振りかえってみると、不動産の上昇で「固定資産税が高くなった」と不満を述べるばかりで誰一人「政府に感謝します、とか神に感謝します」と言う人はいませんでした。金銭的に豊かになっても幸せを感じられなかった一例だと思います。
 自分自身の健康に気を遣う人が多くなり、フィットネス倶楽部は大繁盛で、平均寿命はNo.1になったようですが、ここでも「死なないで生き延びること」が目的になっており、生きている間に「何をするか」が忘れられているように思います。徒に長生きしても自分自身がやるべき事を持たないのでは意味がないと思います。
 外国語を学ぶ人も多くいますが、外国語をマスターする事が半ば目的化しており、何の為に外国語を学ぶかを考えていない人がほとんどです。外国語を学ぶのはあくまで「手段」であり、「目的」ではないのです。大学に「外国語学部」なんてものがあること自体間違っているように思います。(私が通った大学にも多くの外国語学科がありましたが・・・) 今年の弊社の入社試験でもTOEIC835点の学生を敢えて不採用にしました。英語を覚えてTOEICの点数を満点の990点にすることが「目的化」しているように感じられたからです。外国語を「手段」として自身の「目的」を成就するために使うべきであると思います。外国語を教えるのは「大学」ではなく、専門学校であるべきだと思います。
 「手段」が「目的」になっているのが現代の特徴のように思います。ウェブサイトで有り余る情報が入手できてもその情報を自分で「処理」して自分の「最終決断」に生かさなければなにもなりません。「情報」は「手段」であり、「情報」を得た事だけで満足していては全く無意味です。両手に余る情報に埋もれて「決断」しないまま、人生を終える事のないようにしなければならないと思います。人生は「どれだけ生きたか?」ではなく、「どのように生きたか?」でその価値が決まると信じています。
(文責 井上 豊夫)
日付:2004.7.23 題名:スチュワーデス
学生時代に全日空のスチュワーデスを彼女にしていた友人がいて、私の汚いアパート(台所もトイレも共用の)へ一緒に遊びに来たことがあり、共用台所に立って何か作ってくれている彼女の後ろ姿、特に美しい脚を眺めながら友人を羨ましく思ったことがありました。今でも「スチュワーデス(キャビンアテンダントと呼ぶ航空会社もあるようですが)は憧れの職業で競争率も高いようです。
 先週、シアトルからユナイテッド航空で帰国しました。確か、ユナイテッド航空は倒産したはずなのにまだ飛んでいるのです。更に驚いたのはその飛行機に乗務しているスチュワーデスたちが見事に全員太っており、関取を思わせるようなその見事なお尻は通路一杯に揺れて行くのでした。一人の例外もなく中年の気の良さそうなオバさんたちで、美しくない代りにとても愛想が良いのでした。約10時間彼女たちを眺めながら、「スチュワーデスが若くて美しい国には女性が対等に能力を発揮できる『仕事』が少なく、スチュワーデスに応募が集中し、その結果若くて美しいスチュワーデスが誕生するのではないか?スチュワーデスに美人が多い国はそれ自体、恥ずべきなのではないか?」と感じました。米国では百貨店の店員も中年のオバさんばかりで日本のように若い店員は見当たりません。
 先日、国内の小松----羽田便で気流が悪いとの事で50分の飛行時間中、「シートベルト着用」のサインが付きっぱなしで羽田に着きました。本当は揺れなかったのですがスチュワーデスも客のように椅子に座ったまま羽田に着きました。そんな時、以前三枝成章氏(作曲家)が主張されていた「スチュワーデス不要論」を思い出しました。「飛行機事故が起きた時に『スチュワーデスのお陰で助かった』なんて話しは聞いたことがないし、一体何の為にいるのか判らない。彼女たちが乗っていなければ航空券はもっと安くなる」と三枝氏は言われました。
 私が理想とする「選択肢のある世の中」とは同区間でスチュワーデス付き「30000円」とスチュワーデス無し「10000円」の航空券が選択できる事です。どうしても彼女たちの顔や脚を見たい人は「30000円」、そうでない人は「10000円」を選択し、汽車に乗るように御弁当や飲み物を持ち込みます。勿論、事故に遭遇しても自助努力で脱出し、万一失敗しても「文句は言いません」。冷静に考えると職業としての「スチュワーデス」はあまりレベルの高い仕事とは思いません。日本の航空会社のスチュワーデスもユナイテッド航空のように将来はなるのだろうと思います。若くて美しいスチュワーデスをご覧になりたい方は今のうちです、お早目に!
(文責 井上 豊夫)
日付:2004.7.30 題名:今週の話題
「ウイークリーシゲミツ」という週末在庫情報を提供し始めたのが何時だったか正確には思い出せませんが十年以上前だったと思います。商人にとって手持ちの在庫を明らかにする事は「ご法度」が常識でしたが「常識を疑う」ことをモットーにしている私は在庫情報を得意先に公開する「メリット」の大きさの方を重視し、毎週末に提供し始めました。今では同業他社が真似するまでになっており「正解」だったのだと思っています。数字だけの情報では味気ないので手書きの「今週の話題」も一緒に送りました。「常識を疑う」と言っても「疑ってみた結果」常識の80%は正しいのですが「間違った常識」は存在するのです。ユニークなビジネスモデルは「常識を疑う」ことから生まれるように私は思っています。

現在の読者の中には最近から読み始めて戴いた方もいらっしゃるし、最初からの読者で手書き時代の汚い原稿を全てファイルして戴いている方も多くはありませんがいらっしゃるようです。そして「今週の話題」に「中国タオルとの出会い」が登場したのが1996年6月21日

「中国タオルとの出会い」  1996年6月21日〜1999年12月28日

「果し得ていない約束」   2000年1月8日 〜2002年4月20日

「今週の話題」(ワープロ版) 2002年5月10日〜現在継続中

折角書いたのですから出来れば本にまとめたいと思っていました.特に「果し得ていない約束」は学生時代の出来事を書いたものでしたので書き終えてから出版できないか真剣に考えて来ました。
 毎週書き綴ったものが乱雑だったので昨年の12月から全面的に書き直し作業をワープロで始め、原稿用紙にして125枚程度の長さにまとめ、今年の5月に完了しました。出来あがった改訂版「果し得ていない約束」を何とか発表できる方法を模索していましたが、月刊「新潮45」より、「短縮できれば掲載したい」との申し出があり、8月18日(地方 8月19日)発売の9月号に掲載されることになりました。「今週の話題」のスペースに書いてきたものなのでこの場を借りて、皆様に御礼申上げます。大都市の書店では「新潮45」は山積みにされて売られていますが地方の場合書店の在庫が必ずしも多くない場合がありそうです。
 小生の方で個人購入手配致しましたので御希望の方には無料にて進呈させて戴きます。御希望の方は弊社担当まで必要部数をお知らせ下さい。
 一つだけ御願いがあります。今回発表されるのは125枚の内、37枚分だけですのでお読み戴いた方は「はがき」に「『全文』読みたい」と書いて「新潮社」(東京都新宿区矢来町71)へお送り戴きたく思います。「新潮45」には読者カードが付いていませんので御手数ですが「はがき」をご準備下さい。尚、同じ頃発売の「週間新潮」にも「果し得ていない約束」が「新潮45」に載る事が記事になるそうです。
(文責 井上 豊夫)
日付:2004.8.6 題名:反日ブーイング
「御断り」:先週号で御報告の通り、「果し得ていない約束」短縮版が「新潮45」9月号に掲載されますが、その「タイトル」をめぐって出版社と揉めました。
原題ではどんな内容かが判り難く、新聞広告や目次での「インパクト」が弱いので編集部の方で「34年目の告白楯の会会員が明かす『我が師三島由紀夫』最期の秘話」とタイトルを付けたいと言われ、筆者が付けたと思われるのは「耐え難い苦痛」と強く反論しましたが通りませんでした。小生が付けたものでない事だけ何卒ご理解下さい。

アジアカップが中国で開催されており、日本が出場すると圧倒的多数を占める中国人観衆から国歌斉唱中でも「ブーイング」が起こり、小生の愚妻などは「もう中国人キライ!」とヒステリックになっています。「ブーイング」の背景には強いものへの「嫉妬」もあるだろうし、学校での「反日教育」も有るように思います。米大リーグ活躍中で人気の松井秀樹選手も敵地ボストンでのレッドソックス戦では「ブーイング」を受けてるようですがこれなんかは「実力の逆証明」だと思います。
 日頃実力も無いのに「チヤホヤ」され過ぎ、さっぱりダメな日本人選手も圧倒的「ブーイング」のお陰で修羅場を乗り切り、決勝戦まで来ました。この拙文をお読みになる頃には日本x 中国の結果が出ていると思いますが、いずれにしても「得がたい経験」だったように思います。皮肉でなくレベルアップできたことを中国に感謝するくらいの気持ちが欲しいと思います。
 サッカー選手からすれば「感謝」すべきですが、中国人が「反日的言動」をするのを見る事は一般人としては「残念」に思います。「反日教育」のせいで「我が国を侵略したのは日本だ!」と言われると反論できず、黙り込むか、懺悔するのか、だと思います。拙文2003.12.19「近くて遠い国」でも御紹介した、中国の女の子からもらった手紙、「実は以前の私は日本人に対する見方が多くの中国人と一緒で『偏見』を持っていました。しかし、貴方に出会って日本人にもいい人はいるのだ、尊敬できる人もいるのだと本当に驚きました。ごめんなさい、現在多くの中国人の日本人に対する見方は不正確なものです。(後略)」を思い出しました。「反日教育」を止めさせる事が難しければ、時間がかかっても「偏見」を少しづつ「解消」していくしかないのだと思います。
 「侵略云々」に対してはあの時代は「弱みを見せれば強国の植民地になり」「強い国は弱小国を植民地にする」のが当り前の時代であり(ソビエトのような社会主義国でさえもそうでした)、弱みを見せた中国は英国、仏国、ドイツ、ロシア、日本などに「租借」という名の「植民地」を取られたのは事実です。しかし「弱みを見せ、付け込まれるスキを見せた側の責任」も重大だと思います。明治維新の前、「阿片戦争」で英国の「無茶苦茶な論理」により「香港」を取らた「清国の失敗」を学んだお陰で日本は独立を守られた事も忘れられません。「一衣帯水」とは良くいったもので、正に中国と日本は助け合いながら、これからも生きていくべきなのです。
(文責 井上 豊夫)
日付:2004.8.12 題名:ハンカチーフ
会社としては8月13-16日まで休ませて頂きますが個人の夏休みが毎年10日間あり、消化し切れない分が40日を超えました。如何使おうか思案中です。

 28年前、初めて中国から買い付けたのはタオルでしたが、その次に扱ったのは「ハンカチーフ」でした。当時、大阪の船場で仕事をしており、近くのハンカチーフ専門問屋を紹介されたので日参するようになりました。専門知識は全くなく、もらった「デザイン」を中国語に翻訳して送り、仕上ってきた商品が指示した色とかなり違って見えたので「クレームだ!」青くなりましたが,それまで扱っていた「合繊織物」と違い、全体の印象がおかしくなければ問題にならなかったので「なんと優しい業界だろう」と思いました。以来、現在まで輸入した「ハンカチーフ」は机上計算ですが一億枚を軽く超えると思います。
 こんなに「ハンカチチーフ」には御世話になっているのに、先日弊社の男子社員に「ハンカチーフを持っているか?」と聞いた所、12人中6名が「持っておらず」全員若い社員でした。彼等は「今時トイレには大抵乾燥器が付いているし、困らない」と言い張るのでした。呆れたのはハンカチーフの担当者までもが持っていないことでした。「ハンカチーフの用途は手を拭くだけでなく、外で女の子が座る時とか『行かないで!』と泣かれる時にもいるでしょうが。
 僕なんかしょっちゅうだから何時も持っている。ハンカチーフさえ持ってない君達はそんな状況になる可能性がないから平気でいられるのです」と言うと、「最近の女の子は泣かない、泣くのは男です」と言われてしまいました。何十枚ある中からその日の「ハンカチーフ」を選ぶことはデザインに対する感覚やハンカチーフの糸使いの違いによる手触りの微妙な「違い」を学ぶとても良い機会に思います。ハンカチーフの普及の為にも泣くのは男ではなく、女の子に戻す運動を始めようではありませんか?
 「ハンカチーフ」の古くからの御得意様によりますと、トイレの乾燥器はハンカチーフ業界にとって大変困った問題のようで、愚かな弊社社員のみならず、ハンカチーフを持たない人は随分と増えているそうです。けれども「ハンカチーフ」の使い道はたくさんあります。食事中のナプキン代わり、テッシュペーパー代わり、突然負傷した時の止血帯代わり、ベトナムではバイクに乗ってる人々が銀行強盗のようにマスク代わりに使っています。銀行強盗にも使えるこんなに便利な「ハンカチーフ」を持つようにしましょう。先日、高校の同窓会があり、この話をしてダンディーなN君に聞いた所、「ハンカチーフは何時も2枚持ってる」との事でした。女の子の「お尻用」と「涙用」だなと直感しました。
(文責 井上 豊夫)
日付:2004.8.20 題名:秀樹と愛ちゃん
ようやく「新潮45」9月号発売されました。金沢では駅の書店にあった5冊はY君が全部買ってしまうなど、ほとんど売り切れ状態のようです。
(これは極めてローカルな現象で、全国的ではありません)入手困難な方はご連絡下さい。残部があれば謹呈させて戴きます。御批判、御意見御待ちします。葉書を「新潮社」に送るのも忘れないで下さい。

NYヤンーキースに松井秀樹が入団して2年目の今年はホームランも既に24本を数えその活躍は誰もが認めざるを得ないと思います。何より嬉しく思うのは松井選手が活躍したニュースが流れると極端に言えば「日本中が元気をもらっている」ように感じられることです。例えノーヒットで失策までした日であっても試合後のインタビューを律儀にも必ず受け、気の利いたことを上手に言えない彼は内容的には面白みの無い受け答えを平気で嫌がらずに続けています。つまらない彼のインタビューも多くのファンには見続ける内に「それが一番自然に」感じるようになり、決して2枚目とはいえない彼の顔も見続ける内に「それが一番自然に」感じるようになっています。
 時々テレビに映る大リーグのダッグアウトは日本と違い選手が投げ捨てたコップやゴミが散らかり放題です。そんな連中の中にあって、松井選手は外野守備練習でフェンスの突起部分にスパイクを乗せてフェンスを越えようとするボールを取り、降りた後に突起部分に残った僅かな土を手で払い落とすのを見て彼と同じ日本人であることに私は「誇り」を感じました。
 蛇足ですがシアトルマリナーズのダッグアウトで使われている白地にブルーのプリントが施されているバスタオルは弊社がニューヨークの会社に輸出したものです。今度、テレビを見る時は「ダッグアウトに御注目」下さい。
 アテネオリンピックの前半で最も注目を浴びたのはゴールドメダルをもらったオリンピックチャンピオン達ではなく、卓球の福原愛選手のように思いました。彼女が勝つことで松井選手以上に「日本中が元気をもらった」と思います。彼女のインタビューは松井選手と違い、必ずと言っていいほどマスコミ受けする「気の利いたコメント」が一ヶ所あります。それが自然に出て来るので聞いてる方は「思わずニッコリ」してしまいました。2戦目でランキング12位の米国選手(と言っても中国人)にストレート勝ちした後、「今度は緊張しませんでしたか?(1戦目は緊張で手が震え、4-3のフルセットでやっと勝った)」と聞かれて「全然緊張しませんでした」と答え、「何故ですか?」と聞かれ「一度死んだから」と返したのはクリーンヒットでした。彼女が勝ったのはたった2回でしたが、私には最も印象に残る選手でした。同じくインタビューの中で、他の選手と写真を撮ったか?と聞かれ「開会式の時に撮って戴きました」と答えるのを聞き、自分が一番の人気者である事は本人も感じているだろうし、普通なら「天狗」になってもおかしくないのに「撮って戴きました」と「美しい日本語」を使う彼女と同じ日本人であることに「誇り」を感じました。そして「熱田神宮(あつたじんぐう)」を「(ねつたじんぐう)」と以前言っていたのも「許そう」と思いました。
(文責 井上 豊夫)
日付:2004.8.27 題名:右と左の矛盾
どちらかと言えば「右」の立場から書いた昔の話が「総合雑誌」に掲載されました。それを読み返しながら感じたことは当初「左」の勢力による暴力革命の可能性があり、「それを何とか阻止しなくては」との思いから「右」の立場に立ち、国民の意思に反する「暴力革命反対」を訴えました。
 一方、以前「左」の立場にいた友人は「戦争に巻き込まれてはいけない」との思いから「左」の立場に立ち、国民を犠牲にしないよう「反戦平和」を訴えました。
 ところが「右」の立場に立っている内に次第に退廃して行く祖国を救う為には、「議会制民主主義にだけ任せてはおけない」となり、実力行使(ありていに言えば暴力)に訴えても救済しなくてはいけないと考えるようになって行きました。
 一方、「左」の立場に立っていた人は、完全な「反戦平和」を実現する為には議会制民主主義にだけ任せてはおけない」となり、実力行使(ありていに言えば暴力)に訴えても権力機構を倒さなくてはいけないと考えるようになって行きました。
「右」も「左」も「国民にとって良かれという気持」からスタートしている点は同じだったのだと思います。「思想」というものはいずれにしても「危険」なもので「思わぬ方向に」変化し、エスカレートして行くものなのです。けれども「危険」だからと言って誰もが「国の行く末、国全体のあるべき姿について考えないようになること」はもっと不幸だと思います。「安全な思想」なんてものはこの世に存在しないと思います。「思想の危険性」を熟知しながら「国の行く末、国全体のあるべき姿」を考えて行くべきだと思います。
 昔、「左」の立場にいて「爆弾」まで準備して逮捕された友人とは何だか話が合います。御互いの立場、御互いの矛盾を理解しているという「ベース」があるからでしょうか?
 今回、雑誌に拙文が掲載されてから、御叱り、励まし、感想などを多くの方から戴き有難うございました。筆者から見て、「完全に理解して読んでくれている」と思われる感想も多くはありませんが戴きました。小生より、三島氏が喜んでくれていると感じました。
ある友人の感想の一部を御紹介します。

(前略)「内容も以前とは(注: 「新潮45」のこと)変って『週刊実話』っぽくなっていて、これもやれやれ。
でも、そのなかでこそ光っておりました、ぞ。ああだ、こうだと主張の騒がしい今日、三島さんのお顔は新鮮です」(後略)

確かに三島氏の顔が一面で紹介されたのは大変良かった、編集部に感謝しなくてはと思っています。小生の文章より三島氏の一枚の写真の方が強く訴えかけるものがあると正直に感じています。

(文責 井上 豊夫)
日付:2004.9.3 題名:男の未練
先月、高校の同窓会が温泉一泊で実施されました。半年以上前から決まっていたので「忘れてしまい」参加しなかった人もいたかもしれませんが、県外にいてなかなか参加できない人々には「予定が立て易く」卒業以来, 36年振りに参加した人も何人かいて、「喧嘩もなく」楽しく終わりました。
 友人のY君は36年振りにM子さんが参加すると事前に聞いて張り切っていました。「何故張り切るの?」と聞いてみると、高校時代、学校近くの丘陵地帯の墓地へ二人で登ったことがあり、彼によると「彼女の方から誘った」と言うのでした。たったこれだけの出来事を36年間忘れずにいるなんて「冬のソナタ」も顔負けの「純愛」だと思いましたが、冷静に考えてみるとY君を笑えない「未練を抱き続けている自分」に気付きます。
 温泉での宴会が始まり、酒もかなり入った頃Y君に「如何だった?」と聞いた所、「彼女は全く覚えていなかった!」と言うのでした。男の中では36年前の「ちょっとした出来事」が鮮明に記憶に残り、きっと死ぬまで忘れないのだろうと思いました。男の時間は止まったまま、36年の歳月だけがその表面を流れただけで、外見だけ醜くなっても中味は何の進歩なく、止まったままなのでしょう。女の時間は留まる事を知らず、36年間流れっぱなしで、昔の「つまらない出来事」を振り返る余裕などなく過ぎて行くのでしょう。
「何時までも未練がましい」のはいつの世でも「男」であり、「女」に「未練」は似合いません。
アテネオリンピックだって活躍が目立ったのは女子選手で、今やレスリングは「女」のスポーツになった感があり、レスリング女子は「金メダルを2個しか取れなかった」と悔しがり、レスリング男子は「銅メダル2個も取れた」と大喜びしている始末。数えてみると女子の金メダルが9個、男子が7個でした。同じ金メダル数だった東京オリンピックでは女子の金メダルは遠い記憶ですが確か女子バレーボール1個だったと思います。
海外旅行に行って出会う日本の若者の80%は女の子です。「日本に若い男はいないのか?」と聞かれた事があります。アグレッシブなのは「男」より「女」になり、「未練がましい」ことだけが「男」の特長として残るのでしょうか?
(文責 井上 豊夫)
日付:2004.9.10 題名:他人事
全くローカルな話題ですがFM-N1という小さなFM局があり月曜〜金曜まで毎日6:30〜7:00pm出演することになりました。
収録はもう終わったのですがインタビュアーの質問が陳腐で2時間以上かけて録音が終わった時には「誰にも教えないでおこう」と思ったのですが立ち会っていた「録音係」の女の子が帰宅後母親に「今日井上さんという人の録音があり、感動的な話がたくさんあった」と言ってくれたことをその「お父さん」から聞いたので放送日を申上げます。(偶然そのお父さんは小生の友人でした)
9月20日〜9月24日 6:30〜7:00pm FM 周波数76.3金沢周辺の方のみ受信可能です。(自信作ではありません、念の為)

 南ロシアで学校の占拠事件があり、多くの子供を含む人質が400人以上殺された事件はご存知と思います。大変残忍な事件で肉親たちが泣き叫ぶ姿が紹介されています。
 規模は全く違いますが以前起きた池田小学校での小学生殺傷事件と比べるとロシアの事件は遠い異国での出来事であり、日本で起きた事件と感じ方が違うように思います。所詮、「他人事」なのです。この感じ方の違いの原因は何処にあるのでしょうか?
他国の出来事<自国の出来事<自分の地域の出来事<自分の知人の出来事<自分の家族の出来事 (<は不等記号と御考え下さい)
 どうしてこのように感じ方の違いが出て来るのでしょうか?「人間の業」なのでしょうか?理屈を並べれば「他国の出来事」= 「自分の家族の出来事」であるべきなのだと思います。けれども重病の他人の子供より自分の家の犬の病気の方が心配なのが現実です。この「不思議な感情の違い」が「ナショナリズム」に繋がって行くのだと思います。オリンピックで自国選手の活躍に感動したり、涙したりすることも結局はこの「不思議な感情の違い」から来ていると思います。ビートたけし氏の名言の一つに「他人の母親の死も自分の母親の死も同じように悲しむことが出来るようにならない限り、『ナショナリズム』はなくならない」というのがあります。「ナショナリズム」を偏狭だと非難するのは容易ですが、本当にそう言える人はいないと思います。
 米国では「9.11」三周年ということで騒いでいますがこれも偏狭なナショナリズムであり、彼等にとって「9.11」の米国人の死は他国であるイラク人、アフガニスタン人、日本人(原爆で殺された30万人)の死より重いのです。「9.11」で3000人以上の人が亡くなったからと言ってアフガニスタンとイラクに攻め入りイラクだけでも15000人のイラク人を殺し、米軍の戦死者も千人を越えました。報復は報復を呼び、その連鎖は終わる事を知りません。人間は愚かしい存在であり、「ナショナリズム」を捨て去り、否定することは「不可能」ですが「9.11」三周年にあたり、米国の愚かしい判断を「他山の石」として、行き過ぎた「ナショナリズム」に米国がこれ以上はまらない事を願わざるを得ません。

(文責 井上 豊夫)
日付:2004.9.17 題名:南京再訪 その1
今週の前半、南京に行きました。南京を訪れたのは10年振りくらいで随分高層ビルが増えて以前の面影は微かに残るだけでした。10年前までは南京から車で4〜5時間の所にプリントタオル工場があり、頻繁に行く機会がありました。
 朝日新聞に毒されている方々はきっと「南京」と聞けば「大虐殺」をイメージされるのでしょうが「日本人だからといって白い眼で見られた」ことは一度もありませんでした。ただ12年前に某大手化粧品会社の購買部の方を南京に御連れすることがあり、その納入窓口の東京の会社が嘱託として雇った人が元日本共産党員として「スパイ容疑」で15年間中国湖南省の監獄にいたことがあり、文化大革命中に市長、学者,政治家たちが次々牢獄に送り込まれてくるのを中から見ていた話を聞いた事がありました。「市長」や「学者」でも牢獄の中では人間の本能剥き出しとなり、僅かな米飯の分配を巡って「大ゲンカ」になり、数学者が山盛り一杯の米飯を糸で8等分して分けたそうですが、それでも「多い」「少ない」とケンカになり、そんな日々に耐えられない「インテリ」はトイレで次々自殺したそうです。そんな話はとても面白かったのですが、15年監獄にいても「思想は変らなかった」らしく、我々を「南京大屠殺記念館」に是非案内したいと言い出し、初めて見学しました。ここでは南京虐殺が「あった」とか「なかった」とかを論ずるつもりはありません。
 更にさかのぼり、23年前の1981年2月、初めて南京を訪れた時は立派なホテルは未だなく「双門楼飯店」というところに泊りました。当時は公司の商談室の暖房も「練炭」しかない時代で町中が凍てついていました。商談室で苺の刺繍付きのテーブルクロスを見ていると同じ商品に興味を持った白人の女の人と目が合いました。ホテルに戻り、一人で夕食を取っていると、さっきの白人が空きテーブルがなくて立っていました。また目があったので私のテーブルで一緒することになりました。サンフランシスコの貿易会社の人で中国語が上手なので一人で出張している所でした。当時の中国が自慢にしていた「長江大橋」を見せられた?と聞くと首を縦に振り「not so beautiful !」と笑って答えました。
 偶然彼女も翌日の昼前の汽車で上海に戻る予定だったので、「一緒にタクシーで駅へ行こう」と誘われました。翌日一緒に駅に着くと彼女は大型のトランクを二つも持っており、アタッシュケース一つの私が「一つ持ちます」というと美しい中国語で「ナンニュイピントン(男女平等)」と言いました。「何が入っているの?」と聞くと服装品のラベルだそうで、中国に送ると、例えば2セクション分をまとめて送ると最初に受取った担当が全部取ってしまい、隣のセクション分を渡さない為に「納期遅れ」が生じるので直接手渡す為に「持ってきた」と言うのでした。中国の列車は各車両毎に車掌が検札のためにホームに立っており、乗り込む時に彼女は流暢な中国語で「同じ部屋にして」と言いました。列車はコンパートメントになっており、内鍵が掛かるのでした。私は名画「北北西に進路ワ取れ」の中の濃厚なラブシーンを瞬間思い浮かべ、これから上海までの5時間一体何が起きるのだろうと胸の高鳴りを感じるのでした。
(つづく)

(文責 井上 豊夫)
日付:2004.9.24 題名:南京再訪 その2
中国の列車は軟臥(グリーン寝台),軟座(グリーン座席指定)、硬臥(普通寝台)、硬座(普通座席指定)に分かれています。南京から我々が乗ったのは軟臥でした。
1981年当時は未だ外国人は少なく、南京から軟臥に乗ったのは我々二人だけでした。
 彼女はベッドに座ると車掌にビールを注文し、青島ビールの大瓶を手酌で飲みながら、仕事を始めるのでした。アメリカ人は「あまり勤勉ではなく、働かない」と聞いていたので「意外でした」。車掌が昼食の注文を聞きにきたので彼女は「幾らと幾らがあるの?」と聞いた上で「一人十元」のを注文した上で料理の内容を詳しく聞くのでした。「凄いなぁー」と感心すると「ちゃんと聞かなければいい加減な事があり、『野菜炒め』は必ず食べるので欠かせない」と言うのでした。中国語は大学で勉強したらしく「きっと貴方が一番だったでしょう?」と聞くと「ベストプロナウンシエイション(発音)だったけど中国語の同級生は数人だった」と答えるのでした。日本人が中国語を学ぶ時は如何しても漢字の影響を受けるので発音が不正確になりがちですが、漢字に無縁な米国人は耳で発音を覚えるので「美しい発音」になるのだと思いました。
 上海に着き同じタクシーで先ず、彼女のホテル「和平飯店」に寄り、彼女を降ろしてから,自分のホテル「錦江飯店」に向かいましたが彼女が降りた後「今降りた白人の中国語は中国人より美しい!」と感心していました。当時はホテルを予約するのも大変で中国の公司経由でないと難しい時代でした。翌日、私のホテルの向かいで「服装商談会」が開かれていたので彼女が尋ねてきました。
「錦江飯店」は旧フランス租界にあり、フランス人によって作られたクラシックなホテルで九階のレストランの美しさは「欧州にもない」ほど見事なものでした。彼女はMarinda Coxという名前で、インテリジェントな美しさを兼ね備えていたのですれ違う人々の視線は「彼女」に注がれるのが判りました。「ボーイフレンドはいるけど、彼には家庭があり、結婚はできない」というので「何故できないの?」と聞くと「あなたに説明するのは難しい」と言うのでした。それは「状況が複雑だから」なのか「私の英語力では理解できないから」なのかは判りませんでしたが美しい顔には少し寂しげな表情も素敵に感じさせるものがありました。同じ商談会に参加している日本人の知り合いが彼女と二人のテーブルに用事もないのに来て「井上さん、如何ですか商談会は?」と如何でもいいような事を聞いてくるのでした。
 この出張では輸出と輸入を合わせて3億円くらいの成約ができたことも忘れ難い「思い出」ですが、Marindaとの出会いは今も強く「男の未練」として残っているのでした。
(文責 井上 豊夫)
日付:2004.10.1 題名:ラジオ出演
決算報告:皆様の御蔭を以ちまして無事に第22期決算を終えることができました。速報値によりますと売上高は前年比7.6%増の28.3億円、税引き前利益も12%増でいずれも過去最高を記録した模様です。来たる23期には米国,EU向けタオル輸入枠撤廃など大きな波乱要素も多く、「油断大敵」と自戒致しております。何卒、皆様には倍旧の御引き立てを賜りますようお願い致します。
重光商事株式会社

1949年生まれは後に「団塊世代」と呼ばれるほど多く、小学校に入った時も50人x 6クラス=300人もいました。しかも私の小学校は入学した4月の終わりに火事で全焼し、跡形もなくなりました。1年生は近くの小学校へ集団登校して「午前,午後」の2部式授業となりました。「焼け出された我々」と「よそ者に学校を使われた彼等」の間には「哀れみ」も「同情」もなく、奇妙なナショナリズム」で「ケンカ」が絶えませんでした。ようやく3年生になった頃に私達の小学校は当時未だ珍しかった「鉄筋コンクリート4階建」で完成しました。その頃書かされた作文「3年生になって」が優秀だったのか、説明もないまま、ある土曜日の午後再び学校にくるように言われ、連れて行かれたのはラジオ局でした。未だ「テレビ放送」がない時代で、「自分の作文を自分で読みなさい」と突然言われました。生放送ではなかったので後日放送日には家族全員がラジオの前に集まり、日頃帰りの遅い父親までも平日の昼間帰って来たりして大騒ぎでした。テープレコーダーもなかった時代だったので自分の声を客観的に聞いたことなどあろうはずもなく、「恥ずかしさ」のあまり、堀炬燵に潜り込んで聞いていました。これが私のラジオ初出演でした。出演のご褒美は確か「鉛筆」だったと記憶しています。
 その後学生時代には大学が赤坂TBSに近かったので昼の生クイズ番組やドラマのエキストラでアルバイト代を稼ぎました。今回、FM-N1という聞いたこともないミニFM局から月曜〜金曜まで毎日30分出演しないか?とのオッファーがあり、軽薄にも受けてしまいました。「事前打ち合せなし」で女性アナウンサーの質問に答えながら収録は始まりました。期待していたような質問は全く出てこず、如何でもいいような質問が多いように思い、収録が終わった時には「誰にも言わないでおこう」と思いましたが実際の放送を聞いてみると「わりかし上手いじゃないか!」と感じ、自信が湧いてきました。ウソだと思う方はMDを貸し出すので御一報下さい。出演のご褒美はFM局名入りティッシュペーパーが二箱でした。
(文責 井上 豊夫)
日付:2004.10.8 題名:潔癖性症候群
題名は忘れましたが向田邦子さんの随筆に「自然が大好きな」女性がいて毎日回ってくる「豆腐屋さん」から「自然な豆腐」を買うことを日課にしており、友人にも「豆腐」を薦めていたのですが、ある日遠くで「豆腐屋さん」が道端で「用を足す」のを見て以来「豆腐」を買うのを止めた話がありました。「用を足したその手で『豆腐』をすくうのが我慢できなかった」ようなのですが「どっちも自然じゃないの」と向田さんは思ったようでした。
 こうゆうことを書くと「得意先」から御叱りを受けそうですが「一般論」として聞いてください。弊社が納入した某都市銀行販促用「ふきん」の袋の中に2ミリくらいの虫(死んだ)が一匹入っていて「大問題」になったことがありました。
 これとは別にコンビニルートで流れているタオルの袋の中に「頭髪」が一本入っているのが発見され、背筋が凍る思いをしたことがあります。金属片は金属探知機で機械的にチェックが可能ですが、「虫」「頭髪」は「人の眼」に頼るしかありません。けれども「虫」も「頭髪」も「自然なもの」だし、果して「大問題」になることが「正常」なのでしょうか?
 香港からトロントに移住した友人の息子がガールフレンドを伴って来日し、車で能登半島を案内したことがありましたが、前日自分が飲み残したペットボトルの水を飲まないのが気になりました。
 その少し後、日本の新聞にも「ペットボトルに口をつけて飲み、栓をして一ヶ月放置するとボトルが『破裂』する」との記事が掲載されました。こんなことを気にし始めると今度は「キスをすると一ヶ月後に胃が破裂する」と言い出すのではないかと心配になりました。他者を全て「汚れた者」としてしまっては「人類存続の危機」にまで発展しかねません。
 幼い頃から「ペットボトルの水」しか飲まずに育った子供の多くは「水道の水」を飲めないようです。海外旅行でお腹を壊し易い人が多いのも、日頃からばい菌の付いたものを適度に口に入れていないのも一因のようです。中国やベトナムで「一寸不潔だなぁー」と感じるものが出されることがありますが「これを食べることでお腹が適度に鍛えられるのだ」と前向きに考えて思いきって食べるように心掛けています。床に落ちた食べ物でも平気で拾って食べるように育った者が勝ち残ってゆくのだと思います。
(文責 井上 豊夫)
日付:2004.10.15 題名:中国駐在員
 13日まで上海にいました。帰国の前日、取引銀行の駐在事務所開設十周年の宴会に参加した所、以前合繊織物の輸出で取引のあった大阪の商社の輸出担当に十数年振りで会いました。以前はニューヨーク駐在員だった彼も今は寧波の日系合弁会社の総経理になっていました。中国向けの輸出で彼の元の会社と張り合っていたことがあり、広州交易会で苦労の末、何とか成約に漕ぎ着け「明日は晴れて帰国」という前日の夜、同じホテルの彼の会社の事務所になっていた部屋を尋ねた所、未だ成約できていないようで「メーター、一円しかマージンないけどやるか、やらないか」といっている最中で、「内心、ニンマリ」したことが昨日のことのように思い出されました。この頃は中国の駐在員の数も少なく、それなりに苦労も多かったと思います。
 けれども「中国へ草木もなびく」現代では必要性を十分考えずに、「中国と取引があるから」との単純な理由で「大手商社」は支店を作り、日本から「あまり賢いとは言えない日本人を数名駐在員」として派遣し、支店長、次長などと偉そうな肩書きを与え、現地雇員として「優秀な日本語の話せる中国人を数十名」採用します。日々の実務は現地雇員の中国人が行い、工場などに行き商談し、その結果を日本人の管理職に夕方「日本語で報告し」、日本人の管理職は自分がしたように本社に報告します。そして夕方六時頃には日本人だけで集まり、中国人の悪口を言いながら「日本食」を食べます。優秀な中国人雇員たちは自分の会社は大会社のようだけど『現地雇員』では『絶対偉くなれない』と気付きます。その内、今自分が担当している商品は「名古屋の○○株式会社」が買ってくれており、「この前来た社長も何だか直接工場とやりたそうだった」と感じ始めます。その中国人は「大手商社を辞め」、○○株式会社と工場の間で仕事を始めることになります。こうして「日本人」と「中国人」は決して交わらないまま、平行線をたどります。辞めない中国人雇員の一部には工場から「金銭」を受取ったり、「女性」を世話してもらい、工場はその費用をコストに上乗せします。これが駐在員を派遣している「商社」の実態です。
 先日、今年の採用試験が終了したと言っているのに「会社訪問」だけでもさせて欲しいとの申し出があり、北京の日系企業に数年勤務経験のある日本人の女性に会いました。今日書いたようなことを彼女に話した所、「全くその通りです。金沢でこんな話が出来る人がいるなんて思いませんでした。日本から駐在員として着任した人は着任したその日から『帰国まで、あと何年だ』と数えるくらいで帰国できることだけを『楽しみ』にしています」と言われました。
 現代は金沢の自宅を朝出ても上海,北京、青島、大連、広州で「昼食を取れる」くらい交通の便が良くなっており、こんな近い所に「支店」を持とうという発想自体が「時代錯誤」なのだと思います。時代をよく見つめない経営手法は意外に沢山残っているように思います。
(文責 井上 豊夫)
日付:2004.10.22 題名:上場企業の経営者たち
20日まで中国に行っていました。午後1時頃、台風23号の中を「果敢に関西空港に着陸」しました。

 以前は十数行あった「都市銀行」も今や実質「三大メガバンク」に集約されつつあります。弊社のメインバンクは地方銀行なのですが、「三大メガバンク」の内二行とは既に取引があり、残る一行とも最近取引が開始され、「地方銀行」+「三大メガバンク」体制になりました。商売をされていない方はあまりご存知ないと思いますが、銀行と取引が始まると弊社の場合のように「無担保の信用取引き」であっても代表者は「個人連帯保証書」に個人の実印を押さなければなりません。万一、会社が倒産すれば代表者の個人財産は全て取られてしまいます。個人の預金のみならず、自宅や不動産など全財産です。
 一方、公開又は上場会社の場合は基本的に代表者の「個人連帯保証書」は外され、不要となります。勿論上場会社である「三大メガバンク」の頭取は「個人連帯保証」をしていません。最近話題になったダイエーの睫數夫社長は10月22日「社長辞任」したようですが、いわゆる「サラリーマン社長」である彼は合計9200億円の銀行借入を「棒引き」にせざるをえない状況に会社を追い込みながら「個人資産の供出もなし」で「簡単に」辞められます。退職金は諦めざるを得ないでしょうが、自宅にも住み続けることも可能でしょう。
 インサイダー取引の疑いが濃い西武グループの堤義明会長も辞任を表明したようですが同じく「世界の富豪に列せられる彼の個人資産の供出はなし」で済みそうです。インサイダー取引のみならず、場合によっては「詐欺罪」で刑事告訴されてしかるべきだと私は思います。でないと長年「コクド」という西武鉄道の「持ち株会社」を作り、大量に西武鉄道株を保有させ、故意に「コクド」を赤字会社に持って行き、その「コクド」の株を保有することで「グループ」の支配権を握り、株の譲渡などで発生する譲渡益への課税逃れや贈与税逃れなど「節税と称する脱税」の手段として「コクド」という会社が存在していたことは私でも知っているくらいで世間周知の事実でした。世間にはこのような堤義明氏の手法を「流石だ」と評価する風潮すらあったことは事実です。しかし「納税の義務」をいろいろな手段を講じて逃れようとすることは「経営者としては卑しい行為」だと私は思います。策を労し、政界にも強力なパイプを持っていた堤義明氏の失脚を教訓とすべきだと思います。
 先日国会中継を偶然見ていたら、公明党の浜四津敏子氏が代表質問で中小企業経営者の個人連帯保証の「あまりの過酷さ」について質したようでしたが翌日の新聞ではその部分は「カット」されていました。大企業と中小企業の「経営者」に対するあまりにも違う銀行の対応に「疑問」をはさむ声さえ聞こえてこない日本では「珍しくまともな質問」であったように思います。
 一日も早く「個人連帯保証」を外すように銀行に「要求」できる企業体に成長しなければと思っています。
(文責 井上 豊夫)
日付:2004.10.29 題名:広州賓舘2004
 広州には毎年行ってはいるのですが、「広州賓館」には20年以上泊ったことがありませんでした。1976年私が初めて広州を訪れた時には、全ての日本人広州交易会参加者は「広州賓館」に泊らされ(収容され?)ていました。26階まで泊っているのは全員日本人で、中国人が許可なくホテルに入ることは認められず、24時間公安が玄関で見張りを立てていました。ホテルといっても「鍵」すら渡されず、エアコンもない時代でしたから、廊下を挟んで左右の部屋のドアは開けっぱなしにすると心地よい風が通り、それが唯一の楽しみでした。パスポートも現金も部屋に置きっぱなしが「常識」でした。ホテルというより「学生寮」といった方が相応しく、蒸し暑く乾きの悪い部屋には「紐」が張られ、洗濯物が吊るされていました。一人で泊まることは困難で、見知らぬ人と「名刺交換」して相部屋で泊るのも「常識」の一つでした。テレビもなく、廊下を歩くと見知らぬ人の部屋から持ち込んだラジカセから「日本の歌」が流れてくると「その部屋に入りたい」という衝動に駆られました。部屋から海殊広場の方を眺めると左手の「華僑大厦」の屋上には「戦無不勝的毛沢東思想万歳」と大きく書かれていました。最初よく意味が判りませんでしたが「漢文風に読み、二重否定」と解釈すればよいと思うようになりました。他には「全世界無産者階級起来!」と書かれた看板もありました。文化大革命がようやく「終息」し、江青以下「四人組」が逮捕された直後で、「四人組」に「×印を付けた」デモ隊が街に溢れていました。
 私の心の「広州賓舘」はこのような思い出と共にありました。その「広州賓舘」に20年振りに泊ることになり、少し「ワクワク」していました。久し振りの「広州賓舘」は廊下の天井が低く、狭く、そして暗く感じました。幼少の頃の思い出の地に行くと「全てのものがイメージより『小さく』感じられる」のに似ていると思いました。部屋からの風景も違っていました。海殊広場の近くに掛かっている「海殊大橋」には、朝夕自転車に乗った通勤の人々が「黒い蟻」のように見えていましたが、今は通る自転車は「まばら」で同じ場所とは思えませんでした。地下鉄やバス、自家用車などで通勤する人が増えたのでしょうか?
 思い出の多い二階の食堂はショッピングモールになっており、三階の食堂は改装中だったので、近くに以前一杯20角(当時25円)のそば屋があったのを思い出し、社員6名を連れて行って見るとそば屋はもうなく、「大衆食堂」になっていました。社員教育には最適と思われたので、夕食を「食べ放題」で注文しました。一番高い料理でも12元(現在160円)。ビール、デザート「西米露」付き7名分で112元(現在1500円)、翌日の朝食は50元(現在810円)でした。翌日の夕食は一部客を呼んでの「海鮮料理」で2750元(現在37000円), 現在の中国に現存する「格差」を象徴するように思えました。
(文責 井上 豊夫)
日付:2004.11.5 題名:Gone with the towels
 米国大統領選挙もブッシュ氏の再選で決まり、ようやく落ち着きを取り戻したようです。今度、米国ワシントン州シアトルに会社を設立することになりました。実は会社は形式的には2004年9月24日にもう設立されたのですが、駐在する二人の査証(E-2ビザ)が申請中で「待たされて」いるのが現状です。
 米国領事館から連絡もあったので12月6日から現地での業務を開始できそうです。
 正確な場所はシアトルの市街地から車で15分くらいのRenton市で空港にも近い所で、社名はShigemitsu USA Corpです。米国ではシアトルは雨の多い所で有名だそうで「シアトルに行く」というと「傘持った?」と言われるくらいだそうですが、6〜9月は天気も良く涼しいので「避暑地」としては「最適な」ようです。

 会社を作って21年、中国にもベトナムにも投資を一切してこなかったのに何故米国に現地法人を資本金US$500,000で作る気になったかというときっかけは今は亡き「陳瑞春氏」でした。本来なら今回のShigemitsu USA で働く四名の中に彼がいたはずでした。彼を突然失った時、「これで米国進出を諦めるわけにはいけない」と思ったのも事実でした。調べていく内に米中間のタオル貿易には中国からの「輸出枠」が現存し、しかも2005年1月1日から撤廃の予定であることも判って来ました。今厳しい規制があるということは「撤廃」になれば「新世界が開ける」と思っています。欧州向けの「輸出枠」も同時に撤廃される見込みなので中国のタオルメーカーにとっては米国と合わせて新たに「7.5億人の市場」が手に入るわけで大変喜ばしい事です。2005年1月1日はもしかすると「タオルの歴史的大転換期」になるのではないかと思っています。
 2005年を迎えても「何も変らないじゃないか!」ということになるかもしれませんが、皆さんは如何お考えでしょうか?

Shigemitsu USA Corp.     President : Ms.Gegentana
Director : Mr.Kontani Susumu

241 SW 41st Street,Building 11, Manager : Mr.Komura Atsusi
Suite C, Renton, WA 98055 Manager : Ms.Haga Yuko

Tel: 001-010-1-425-656-0404
425-656-0406
425-656-0407
Fax: 001-010-1-425-656-0405

全て12月6日以降使用可能となります。
(文責 井上 豊夫)
日付:2004.11.12 題名:ヒッチハイク
10日まで青島,上海でした。青島の海岸は綺麗に整備され大変美しいのですがあまり人は多くありません。自分の美しさにまだ気付いていない「美少女」のように思えました。

 初めてヒッチハイク旅行をしたのは大学一年の頃でした。東京から京都に行くのにスケッチブックに「横浜」と書いて京浜国道に立ちました。翌朝京都に着くつもりで午後4時ごろからスタートしました。最初に止まってくれたのは横浜の家に戻る若いOLが運転する車でした。横浜に着いてからもし誘われたら如何しよう?と考えましたが「杞憂」に終わりました。横浜で降りて次の車を探していると二台目は個人の10トン車で姫路まで行く所でした。「京都に行きたい」と言うと「御殿場から名神に乗るので京都の国道一号と名神の交差する所で降りればいい」と言われ、乗り込みました。困ったことは一般道を何台も乗り換えながら翌朝着くつもりだったのにこのまま高速に乗って行くと深夜に京都に着いてしまうことでしたが贅沢も言えませんでした。何故御殿場から高速に乗るかというと途中の休憩所で東京へ向かう「上り」の車と高速のチケットを交換する為でした。例えば浜松で京都から乗った人と交換すれば私を乗せた運転手は京都---姫路の料金で済み、一方京都から乗った人は御殿場---東京の料金で済むことになり、双方にメリットがあるので休憩所は相手探しで賑わっていました。時間的矛盾を突かれたら「寝ていた」と言うことになっていました。今ではこのような不正は出来ませんが、1969年頃は「常識」となっていました。
 結局、夜中の1時に京都の国道一号に着いたのでトラックを降り、高速のフェンスを乗り越え、斜面になっている所を滑るように降り、漸く国道一号に立つことが出来ました。遥か遠くに見える京都タワーを目指して歩き始め、仕方ないので京都中を歩き回りました。夜中の3時の祇園は人気もなく静まり返っていました。京都大学に行ってた友人の下宿も見つかりましたが、門に鍵が掛かっており入れないので近くの鴨川の河原に行き、新聞紙で体を包み暫く眠りながら朝を待つのでした。
 ヒッチハイクに自信を持ったので2年生の夏休みには「東北」、3年生の夏休みには「四国」を旅しました。「東北旅行」では仙台、山形には大学の友人がいたので泊めてもらい、盛岡、新潟では野宿、秋田では乗せてくれた人の家に泊めてもらいました。その家にも私と同じくらいの息子がいて「息子も何処かで同じように親切にしてもらっているだろうから、気にしなくてもいいよ」と言ってくれるのでした。夕食もご馳走になりくつろいでいると、70歳を過ぎたその家のおばあさんに手を掴まれ、私の手のひらを見て「苦労を知らない手だなぁー」とつぶやくのでした。
ヒッチハイクのよい所は地元の人と話が出来ることでした。こちらは只で乗せてもらっているので出来るだけ話すようにしました。すると大体「メシ時」になると「一緒に食おう」となるのが通例で、食事代はほとんど必要ありませんでした。東京?仙台?盛岡---秋田---青森---山形---新潟---東京と一週間で37台の車を乗り継いで回り、使ったお金は3000円でした。いろんな旅はそれぞれに楽しいものですが「ヒッチハイク旅行」も忘れ難い想い出となっています。
(文責 井上 豊夫)
日付:2004.11.19 題名:ヒッチハイク 四国編
 先週は「東北編」でしたので今週は「四国編」です。
四国をヒッチハイクで旅行したのは1971年の夏休みだったと思います。出発は神戸で宇野から「宇高連絡船」で四国に渡る計画でした。最初に乗せてくれた人が自称「神戸大学医学部」の人で運転しながら人工授精の話になり、「遠く離れた人の方が将来問題が起き難いので協力してくれないか?」と言われ、「近くのモーテルへ誘われました」。男からモーテルへ誘われることは滅多にないことなので「ビックリ!」しましたが、「他の目的がありそうと感じた」ので折角の申し出を断りました。危険な車から降り、次に乗ったトラックが「宇高連絡船」で高松に行くところだったので「助手」として乗り込み、船の料金も不要でした。高松では公園で野宿しました。野宿の場合は「蚊除けスプレー」を露出部分に吹掛け、「顔には掛けるな」と書いてあるのに無視して顔にも掛けました。公園のベンチで安眠したのですが、朝5時ごろ降ってきた雨で目が覚め、慌てて道路の向かいの「百十四銀行」の軒下に移動し、新聞を敷いて眠りました。8時ごろ守衛さんが掃除しながら起こしてくれました。高松に着いてから
高松---徳島---室戸岬---高知---松山---丸亀---高松 と時計回りで回ることにしたくらいですから「全く無計画」でした。
 とも角真夏で暑いのでパチンコ屋があれば「涼み」に入り、如何しようもなくなると「銭湯」に入り「汗を流す」のでした。徳島に着き小奇麗な喫茶店があったので「涼み」に入りました。美しいウェイトレスが一人いたので料金を払いながら「室戸岬はどっちですか?」と聞きました。美しいウェイトレスが方向を教えてくれたので、「これからヒッチハイクで四国を一回りする」と告げて歩き始めました。
 室戸岬ではタクシーに乗った「船主」がタクシーを止めて乗せてくれ、高知まで一気に到着しました。有名な「播磨屋橋」や「桂浜」も見学し、夜は深夜喫茶で眠ることにしましたが高知中の「ワル」が集まっているような所で落ち着いて眠れないので深夜2時頃、再びヒッチハイクを始めました。こんな時間でも乗せてくれる人はいるのでした。居眠りしながらなんとか松山に着き、「松山城」近くのベンチで昼ごろまで眠りました。
 「讃岐丸亀団扇の港」で有名な丸亀で団扇を買求め、高松を経て徳島に着きました。美しいウェイトレスの喫茶店が気になったので再び入ってみると彼女が微笑みかけてきました。「一回りした」ことを告げると「室戸岬を聞かれたとき、私ほんとに付いて行こうと思ったのよ」と言うのでした。気品のある美しい人で「阿波踊りのころはよそのひとが沢山来るので毎年旅行に出る」そうで、「徳島を案内してあげるから待ってて」と言って中に入って行きました。うぶな私は少し待ったのでですがなかなか出てこないので一人喫茶店を後にしました。もしあの時彼女が室戸岬に付いてきたら?もしあの時彼女が徳島を案内してくれるまで待つことができれば?少し違う人生が始まったかも知れません。
(文責 井上 豊夫)
日付:2004.11.26 題名:中国に投資しない理由
今週月曜日からパソコンが壊れ、金曜の昼に漸く戻って来ました。パソコン頼りの仕事になっていることを改めて認識させられました。いつ壊れても良いように準備しておかなくては、と思っています。

 1976年以来、中国に行き始めて28年以上になろうとしているのに中国への投資をしたことがありません。最近中国へ行かれる方々は「投資」を前提にされているケースが圧倒的に多いようです。特に日本において過去に輝かしい実績を挙げたことのある「製造メーカー」の場合は「教えるべき技術」、「他社にないノーハウ」そして「長年の経験」を全て持ち合わせているのでどうしても「中国のやり方がまだるっこく感じられ、『教えたく』なります」。フリーハンドで「教える」には「独資」や「合弁」で投資した方が「素直に」聞いてくれると信じ、「投資」が実行されます。「投資」が効を奏し、「利潤」が上がった場合でも自国に持ちかえれるのは「配当金」くらいでその他の「利潤」は「再投資」に回すしかないのが現状です。「投資」が効を奏さず、「損益」が出た場合でも「投資した金銭」を持ち帰るのは「困難な」ようです。
 
 弊社の場合「教えるべき技術もなく」、「他社にないノーハウもなく」そして「長年の実績もない」ので「教えようがない」のが現実であり、我々の為に作ってくれる「工場」を「ひたすら信じて」良い商品を作ってくれることを「お願いする」しかありません。タオルに関して自分が「無知であり、無能であること」を自覚している方が「偉そうに指導」が出来ないので良いのだと思います。

 タオルを中心に扱うようになる前は「合繊織物輸出」の仕事をしていました。今では凋落しその勢いは見る影もありませんが、私が社会人になった1970年代までは北陸地方は「世界一の合繊織物産地」で米国,欧州,中東始め全世界に輸出されており、特に米国は「巨大市場」で1969年にはあまりに大量に合繊織物が米国に輸出された為に「日米繊維交渉」が佐藤内閣の日米間最大懸案事項になり、田中角栄通算大臣がその解決に奔走した時代がありました。ある意味では現在中国からの輸入増加に苦しむ日本のタオル産地の「裏返し」のようでした。北陸から大量に米国に「合繊織物」が輸出されていた時、米国の大手バイヤーたちは年に一度くらい北陸の温泉を楽しむために来日することはあっても、合繊織物の「機屋さん」や「染工場」へ「投資すること」は皆無でした。勤勉な日本人は契約に忠実に生産し、万一遅れた時には船ではなく、日本側負担の航空便で届けてくれるのに「今さら何故投資する必要があるのか?」と言うのが米国人の考えだったと思います。「生産者」と「バイヤー」の間に信頼関係があれば「一切の投資は不要」になります。日中間に見られる「過剰投資」はいわば「基本的信頼関係の欠如」を証明するものです。無駄な投資をしないことは中国に対する「信頼」があればこそであり、中国を尊重するが故の結果であると私は思います。
(文責 井上 豊夫)
日付:2004.12.3 題名:十九歳の手紙
 三島由紀夫氏と森田必勝氏の三十四年祭が11月23日多磨霊園の平岡家墓前にて行われました。(三島由紀夫氏の本名は平岡公威氏) 十一月下旬、多磨霊園の紅葉の美しさはそれだけでも十分価値があると思います。山本五十六氏と東郷平八郎氏の墓が並んでいる所を通り過ぎると10区1種13側に平岡家の墓があります。金澤に住まいしているので昔の仲間に会うのはこうゆう機会しかありません。元会員と両氏の死を悼む人々が四十数名集まりました。例年ですと公安の刑事も来ており、参拝する人を全員写真に撮ったりしているのですが、「ここに集まる連中は『安全牌』だ」と公安からも見放されたようで今年は見当たりませんでした。
 「楯の会」に興味を持ち、大変詳しく調べておられるI氏も参加されていました。I氏は元会員ではなく彼の本業は「医師」ですが、三島由紀夫氏及び「楯の会」のことについては誰よりも詳しく,正確で「生き字引」のようです。拙著「果し得ていない約束」で雑誌に公表された部分もチェック済みで「小学校6年生」と書いた神津カンナ氏が当時「5年生」であった誤りを指摘されました。
 次にI氏から見せられたのは小生の筆跡で書かれた一通の手紙でした。日付は昭和44年4月12日、宛先は東京都大田区南馬込の三島由紀夫氏で、差出人は当時杉並区松ノ木に下宿していた小生でした。青いインクで書かれた封筒と便箋のカラーコピーを渡された時36年前に手紙を書いたことを完全に忘れていたので「懐かしい」という感情はなく、十九歳の自分に突然遭遇したような不思議な気分でした。以下、手紙を再録します。(原文は縦書き)

 前略、突然手紙を差し上げる失礼をお許し下さい。
なんとしても認めていただきたい事があります。
今年の夏休み、自衛隊体験入隊の計画がある場合
私と他一名をその一員にお加え下さること。

去年の夏以来の希望です。右、是非とも許可下さい。一年間の浪人生活でなま
った体力と気力を夏休みまでには訓練に耐え得るようにする覚悟です。幸運に
も許可されるなら連絡方法、期間、準備、資格などお教え下さい。

                           敬具
昭和44年4月12日
三島由紀夫様
            上智大学法学部一年 井上 豊夫

(文責 井上 豊夫)
日付:2004.12.10 題名:心変わり
 以前御紹介した通り、9月20日〜9月24日までの5日間地元のFM局で毎日30分番組「団塊の応援歌」に出演しました。録音が終わった時、感じたのは「良い質問がなく、上手く行かなかったので誰にも言わないでおこう」と思いました。
 実際の放送を聞いた時、「割かし上手く喋っているじゃないか」と少し感じました。
 放送後、録音担当の方から送ってもらったMDを何回か聞いているうちに「良くなかった」と思い込んでいた「質問」の中にも事前に渡した資料を読んでいると思われる「質問」があったことも判ってきたので「上手いじゃないか」と感じるようになりました。もう少し声が良ければ「こういう方面に進んでもよかったかなぁー」とまで思い始めました。中国へ出張する時にも持参し、飛行機の中でも繰返し聞きました。帰国後は朝夕の通勤持にもテープにダビングしたものを聞いたりしています。
 多くはありませんが何人かの方にMDをお貸しした所、比較的「好評」でした。「大きな笑い声が悪がきのようでいけません」とは言われましたが・・・
 今週になってFM局の担当責任者からメールがあり、「今年同番組に出場した52人の中で一番良かったので1月3日9:00〜11:30am 二時間半連続で再放送する事になった」との連絡をもらいました。しかも、全国ラジオ番組の優秀作品に贈られる賞にも「小生の番組」で応募する予定であることも書き添えられていました。
 同じものであるのにその時々で感じ方が変り「心変わり」していったことは不思議な体験でした。最初の「自信なさ」は消え、今は「こうなったら『大賞』を狙いましょう」と言い出す始末で「手に負えません」。

 お正月テレビ番組に飽きたらFMを聞きませんか?

但し、金沢周辺の方に限定ですが・・・
日付:2004.12.17 題名:切り上げ
弊社ホームページ企業情報内の「財務ハイライト」が更新され、2004年決算が表示されました。興味のある方はご覧下さい。
http://www.shigemitsu-shoji.co.jp

 15日に中国から戻りました。今、中国人が最も感心が高いのは噂される人民元の「切り上げ」でした。上海で親しい貿易公司の女の子と会いましたが最初の質問は「人民元の切り上げがあると思うか?」でした。その前日、彼女が卒業した大学の同窓会があり、銀行、保険会社、貿易会社などに勤めている者が多く、話題の中心は「人民元の切り上げ」ばかりだったそうです。
 青島のホテルで日本円30000円を人民元に両替しようとしたら、通常は部屋番号とサインだけでOKなのに、別紙に名前、住所、パスポートNo.電話番号などを書かされました。多分人民元の先高を見越して大量に外貨を持ち込み、人民元に両替する者がいるので始めたことなのだろうと思いました。
 人民元の切り上げについて小生が主張したのは2002.10.04 今週の話題「サルでも解る経済学講座No.2」の中でした。少なくとも日本人の中で「人民元の切り上げ」を最初に話題にしたのは小生であると自負しています。いかなるエコノミストやバンカーよりも早く人民元レートの「矛盾」を取り上げています。その後、半年以上経って、大蔵大臣も「人民元切り上げ」を話題にするようになりましたが、1976年に1US$=RMB\1.4 だった事、その後、2.8元、3.5元、4.5元順次「不当に切り下がった」事をデータとしては持っていても、「実感」として持っている人はほとんどいないと今も思います。
 1985年、貿易黒字を一人占めにして、今の中国と同じように世界から「切り上げ」を迫られた軍事力のない日本はプラザホテルに呼び出され、先進4カ国の要求をあっさり飲んで円は240円から一気に200円を突破し、1995年には79円台まで切り上がり、多くの輸出企業は「塗炭の苦しみ」を味わい、その後少し戻したり、再度円高になったりで現在は105円になっています。
 一方核兵器を含む軍事力を背景に持つ中国は現在貿易黒字を一人占めしているわけですが世界から「切り上げ」を迫られても一向に「OKしません」。日本と違い軍事力を持っている中国には「脅し」は効かないのでやっかいです。中国は来年から繊維製品34品目に1.5%の輸出税を課すことを決めたりして「何もしない」との批判を巧妙にかわそうとしています。中国人の多くは「切り上げは損だ」と考えているようです。1985年当時の日本人も「円高は損だ」と考えていたように思いますので余り偉そうなことは言えませんが、自国通貨が「切り上がると言うことはその国が「経済的に強力になった証明」であり、喜ばしいことであるのに「何故か切り上げは損だと考える人が多い」のが現実です。近視眼的には人民元「切り上げ」は不可能のように思いますが、長い眼で見れば「切り上げ」は必然であると思います。日本円が米ドルではなく、人民元に「連れ高」になる時代がもうそこまで来ているように思えてなりません。
(文責 井上 豊夫)
日付:2004.12.24 題名:ドンキホーテ始末記
今年も御世話になりました。一年の御愛読に感謝致します。
12月29日〜1月4日まで休ませて頂きます。
新年は1月5日より通常業務させて戴きます。
良い年を御迎え下さい。

 PL保険は一般には余り馴染みがないかもしれませんが消費者を保護する為に商品に問題があった場合、「生産者が責任を負う」というのがPL法の趣旨であり、その損害をカバーするためにPL保険があります。私共は生産者ではなく輸入業者ですがこの法律上は「輸入者=生産者」と見なされます。
 得意先より弊社が輸入した「包丁」で事故があり、消費者が指を怪我して慶応病院で手術を受けたとの報告を受けたのは去年の3月でした。中国で作られた「薄刃包丁」で100円均一用に輸入されたもので、小生自身が中国広州まで検品に行った商品でした。その商品の売れ残り在庫が処分価格で売りに出され重光a得意先Aa得意先Baドンキホーテのルートで販売され、ドンキホーテのピカソ国分寺店で50円の単価で販売陳列されていた所、近くの商品を取ろうとした消費者の指に落下しパッケージから飛び出た「包丁」で指を怪我したというのが概略でした。
 通常店頭販売する会社は「店舗賠償保険」に加入しているのでその保険で処理されるべき事件だし、そうされるものと思っていました。ところが5ヶ月も経ってから「東京で話し合う」との申し入れがあり、関係四社と保険会社二社の同席のもと、ドンキホーテ本社でミーティングがありました。ドンキホーテには法務部もあり、五名も出席していましたが驚いた事に5ヶ月も経っているのに自社の保険会社に事故の連絡すらしていないのでした。ドンキホーテ得意先B連合はいずれも一部上場会社で仕入先は「奴隷」くらいにしかおもっていないようで「面倒なことは全て仕入先にぶつければいい」と考えているようでした。

弊社はドンキホーテの「店舗賠償保険」で処理すべきと主張しましたが、ドンキホーテと得意先Bは共同歩調で輸入者である重光商事のPL保険適用を主張しました。ミーティング前まで「絶対に大丈夫です」と言っていた弊社のJ保険会社の担当はドンキホーテ連合から集中攻撃されると「強気の反論がなく」結局「PL保険を使う事に同意」してしまいました。
被害者からは800万円の要求が出されており、保険会社の査定は100万円〜150万円で大きくかけ離れていました。被害者の父親にも面会しましたが「憎いのはドンキホーテ」で「重光商事」ではないと言われ、「君の所はダミーか?」とまで言われました。
年が明けて今年の2月に保険会社から200万円の提示があり、漸く被害者も同意したとの連絡がドンキホーテからありました。示談成立後に200万円を振り込む予定をしていたのですが直前になり、「振り込み確認後」でないと示談しないと被害者が言い出し、ドンキホーテの社内規定では立替え払いが出来ないので弊社に立替えてくれと「泣きついて」きました。立替えに同意してから事故発生時に「ドンキホーテが立替え払いした治療費40万円あまりは当然この200万円に含まれているのですね」と聞くと「実は含まれておらず、別途御相談したい」と言い出すのでした。「それでは立替は出来ない」と強く反論し、「200万円以上一切要求しない」とのドンキホーテ側の「念書」を取り、漸く処理されました。40万円は結局ドンキホーテ側の負担となったのですが、最初から自社の「店舗賠償保険」を使えばこんなことにならなかったに大組織の「奢り」を感じさせた事件でした。
日付:2005.1.7 題名:お節介
 明けましておめでとうございます。今年もご愛読下さいますよう御願い致します。

FMラジオの録音テープを聴いた一読者からの感想を戴きました。

前略「一晩で聞かせてもらいました。姿形はごまかせても声だけは知性が丸出しになるとは、どうやら本当のようで。実に理知的で、いやみなく、押しつけなく、演説にならず、しかも強烈な意が伝わって・・・ふうん、こりゃしゃべりのお手本じゃないのと、真実感服いたしました。早く会社たたんで、その道で活躍されることを本気でお勧めします。DJの方の受け答えも適切で、選曲もとっても粋で。ただ、いつもの笑い声(グッワッハッハ)がンフフと極めて上品に変わっていたのだけが不可解でした。」

これ以上のお褒めの言葉は有り得ないと感じました。


 「他人の不幸は蜜の味」とはよく言ったもので、人に不幸が訪れるとそれまでのわだかまりを忘れて「急に優しく接する」ことがあります。年末に発生したスマトラ沖大地震による「津波」の被害は想像を絶するもので死者は15万人を超え、最終的には何人になるのか検討もつかない状態です。
インドネシア、タイ、マレーシア、インド、スリランカ等の国にとっては未曾有の大災害でした。ジャカルタで緊急サミットが開かれ、小泉首相も参加し、日本として5億ドル(約520億円)の無償援助を申し出ているようです。
F-1のシューマッハが10億円、松井秀喜選手が5千万円、ぺ・ヨンジュンが3千万円個人的に寄付を申し出ていることからしても日本政府が520億円援助することには全く異論はありません。
 けれども聞くところによれば、米軍は12000人、日本の自衛隊も840人派遣を決めたそうです。形式的には被害を受けた国々から「要請を受けて」という形になっているのでしょうが、多額の支援金と抱き合わせ的色彩も強いように思います。被害にあった国々はそれぞれ立派な「独立国」であり、それぞれ自国の「軍隊」を持っています。支援金は受けても他国の軍隊に頼ることなく自国の軍隊の協力で「復興」を目指すのが正しい選択ではないでしょうか?阪神淡路地震の時に,もし他国の軍隊が押しかけてきたら如何感じたでしょうか?被害国から「絶対に来て欲しい」といわれない限り、軍隊を派遣するのは慎むべきだと思います。被害国が必要としている以上の援助をすることは一種の「お節介」です。それらの国に対して失礼な態度だと思います。そう考えると、インド政府が「外国の支援を受けない」と表明していることは「立派な態度」だと思います。今地球上に存在する国の中で本当に独立国だと言えるのはインド、パキスタンと安保理常任理事国(米国、仏国、英国、ロシア、中国)の7ヶ国だけのように思います。勿論、日本は含まれていません。
(文責 井上 豊夫)
日付:2005.1.14 題名:蓮池薫氏に学ぶ愚直
フランクフルトに来ています。

 例え立派なことを言っても非常に悪い印象を与えてしまう人がいます。その代表例を政治家で挙げると、森喜朗氏、その子分中川秀直国会対策委員長、古賀誠元幹事長らの面々で、この三人はノーメークで「ヤクザ映画」に出た方が政治家より合っていると思います。その中の二人、中川氏と古賀氏は「日中関係の発展を考える議員の会」というあやしげな訪中団を作り、中国の唐家?国務委員(前外相)と北京で会い「日中交流基金創設」で合意したと新聞は報じています。「日中の文化、学術、青少年などの交流促進を目指す」のが表向きの目的だそうですが、日本側拠出金25億円、中国側は今後検討すると新聞には書いてありました。この報道の中で日本が出す25億円の部分以外は全て美しく作られた「作文」で、本音は外相時代から「小泉首相の靖国参拝」を強く批判してきた唐国務委員会を含む中国政府首脳たちに「まぁーまぁーそれはそれとして」と25億円差出し機嫌を取ったという所だと私には感じられました。中国側が見てもこのお金は動機が極めて不純なものであり、胡錦涛氏や温家宝氏が前面に出ることなく、元外相が相手をしているのも「中国外交のしたたかさ」です。「問題が生じたら金で」というのは自民党の古いやり方で、中国がこれで「靖国批判」を中止するとも思えません。

 以前日本のODAで出来た上海浦東空港周辺の土地が小平一族に買占められていたようにこの25億円も中国政府の首脳たちへの「靖国口止め料」として巧妙に環流するのでしょう。けれども、少しトーンダウンすることがあってもこれで完全に「靖国問題」に終止符が打たれることはなく、味をしめた中国側の「靖国」をネタにした脅迫は更に続くと思います。こんな美味しいカモはまだまだ絞り取れそうです。しかもこの25億円は誰が出すのでしょうか?税金から?民間から?そんなお金があればスマトラ沖大地震の方に回すべきと考えるのは私一人でしょうか?
 これとは対照的に清々しく思えたのは拉致被害者の一人、蓮池薫氏が年末で柏崎市役所を辞め、自立したいとの意向を示したというニュースでした。兄の透氏の話では「100人の内、例え99人がそう思わなくとも1人でも税金で生活していると思う人がいるのは嫌なので自立の道を探す」との考えのようです。同じく透氏が47歳の薫氏に「お前ももうすぐ50歳だ。財産もなく仕事を辞めてどうする」と言ったそうですが薫氏は聞かなかったそうです。お金がなくても蓮池薫氏にはお金より大切なものがあるのだと思います。
 小金を持ったばかりにもっと大切なものを失ってしまった多くの日本人は素直に蓮池薫氏の愚直さに学ぶべきだと思います。彼の愚直さ、頑固さは日本人が忘れていた大切なものを思い出させてくれます。戦後教育の中で育ち、金独裁体制下で長年自由を与えられずに生き抜いた蓮池薫氏からこのようなことを教えられなければいけないのは現代日本の反省材料にすべき課題だと思います。
(文責 井上豊夫)
日付:2005.1.21 題名:人種差別ブースに春が来た!フランクフルト2005
Shigemitsu USA Corp.のホームページ
http://www.hotel-towel.com
一度度ご高覧ください。

14日フランクフルトから戻りました。1月にハイムテキスタイルに参加するようになって7年目になります。最初のころの印象は白人の国々のための商談会で黄色人種の国々は白人のブースに比べて天井の低い建物の中に追いやられ差別されているように感じました。多くはありませんが日本企業のブースは白人ブースの中にあり、「準白人並み待遇」を受けていましたが何だか南アフリカの日本人みたいで「嫌な感じ」と思いました。
 最近では禁煙の商談会がほとんどなのにハイムテキスタイルは煙草、ワイン、ソフトドリンク、ケーキ、クッキーなどが全てOKで喫茶店みたいなブースも見受けられました。最初のころはディスプレーも白人の国々の方が圧倒的にゴージャスだったし、客も多く、黄色人種のブースは天井が低く、狭い上に客も少ない感じがしました。ところが今年は違っていました。白人ブースは客が少なく、その分黄色人種ブースは多くの客で賑わっていました。「人種差別ブースに春が来た!」ようでした。

 一番の原因は2005年1月1日から中国からEU及び米国向けの繊維製品の輸出制限枠が撤廃された為でした。中国は晴れて全世界をマーケットとして手に入れたわけで、中国にとっては長年日本、オーストラリアくらいしかなかった先進国市場が一気に拡がりました。

 数年前から白人ブースを回り、輸出制限枠撤廃後中国製品が大量に入ることになるので中国にルートを持つ重光商事から買わないか?と勧めて来ましたがあまりよい反応は得られませんでした。ところが撤廃後行われた今回はトルコ、スペイン、ポルトガルなどEUのタオル産地となっていた国々では、素直に我々の話に耳を傾け、テーブルの席に着いてくれるのでした。

 出展している中国ブースで旧知の担当者から聞いたところでは今までに比べて来客は多くなっており、時には客が順番待ちするくらいだそうで、「風は確かに中国に向かって吹いて」いるようです。「前途洋々」とは今の中国のことをいうのでしょう。中国から欧米向け輸出の数量拡大は避けられそうにありませんがその影響が間接的にせよ「日本向け」に波及してくるのは必至だと思います。

世界地図の中で繊維製品の貿易を考えなければいけない時代が来たのだと思います。2005年1月1日は「繊維製品の革命記念日」だったと語り継がれることになることでしょう。

 1月からShigemitsu USA Corp.に大村外志男が入社いたしました。彼は滞米12年のベテランで、33年勤めた一部上場企業の要職を辞めての転職となります。1月中には格根塔棚、紺谷晋、芳賀優子の三名も暫く米国に行きます。
「Shigemitsu USAにも春が来た!」とご報告できる日が必ず来ると信じたく思います。

(文責 井上 豊夫)

日付:2005.1.28 題名:甲子園への道
「運動会の徒競走で順番をつけるのはいけない」という教育方針が日本では浸透しすぎて、学校内で成績の良い生徒が皆の前で誉められたり、表彰を受けたりすることは先ず有り得ません。
 香港からカナダに移住した友人の子息が成績優秀で、毎年優秀者5名の父兄だけが参加できるパーティーがあり、親としては大変名誉に感じたそうです。学年でもトップとなったので卒業式で全校生徒の前で「スピーチ」をする機会を与えられた上、名前が刻印された「金属プレート」が壁に打ち付けられ、永遠に残されたそうです。日本では成績優秀者は常に「日陰者扱い」で一度もスポットライトを受けることなく卒業して行きます。「弱者救済」が行き過ぎて、強者が肩身の狭い思いをするのが戦後日本の特徴であると言っても過言ではありません。
 そんな中で「全国高校野球大会」だけは勝ち残ったチームのみが「甲子園」へ行くことが許されて来ました。ところが最近は「21世紀枠」とかいって予選で負けたチームでも参加できる可能性が出て来ました。「実に下らないことだ」と腹立たしく思っていましたが、先日新聞で我が母校「金沢泉ヶ丘高等学校」が「21世紀枠出場」の候補校になっていることを知りました。理由は「有数の進学校」であり、文部科学省から「スーパーサイエンスハイスクール」の指定を受けているからだそうです。しかしそんな事と「泉ヶ丘高校野球部」とは何の関係もありません。地区大会で負けたのに「甲子園出場」では特に地区大会で「泉ヶ丘高校」に勝った後に負けてしまったチームが浮かばれません。万一、選ばれても「御辞退」することこそ伝統ある「泉ヶ丘野球部」のためになると思います。以前「泉ヶ丘高校野球部」は強く、実力で甲子園にも確か3回出場しています。最近は松井秀喜選手を輩出した「星稜高等学校」や「金沢高校」が強くて、40年以上「甲子園への道」は閉ざされたままですが、その間一生懸命戦って負けたのですからそれはそれでいいのだと思います。「21世紀枠」で出場するなんて見っとも無い事だけは止めて欲しいと思います。
 「弱者救済思想」が日本の「軟弱外交政策」を生み、北朝鮮だけでなく、ロシア、中国、米国にも「馬鹿にされ」続けています。強者が正当に評価を受けられる世の中にならないと「日本が自立」できる日は永遠に来ないように思います。世界の中で生きていく時に「21世紀枠」はありません。
 長年払い続けた国民年金が月額66000円で、生活保護費が月額80000円以上になってしまっているのも「弱者救済思想」が行き過ぎてしまった一例だと思います。
「春の甲子園出場校」の発表は確か一月末に迫っており、選から外れることを願っています。
(文責 井上 豊夫)
日付:2005.2.4 題名:NHK受信料
祝 「金沢泉ヶ丘高校 21世紀枠甲子園出場落選!」

 NHK職員の不祥事が明るみに出て、受信料の不払いが急増して騒ぎになっています。元々受信料の法的根拠が曖昧で真面目に受信料を払っている視聴者と最初から払っていない視聴者がいます。大半の善良な国民は払っているのに一部払っていない人がいることは「不公平」と言わざるを得ません。
 偉そうに言っている小生も実は完全に受信料は払っていません。通常のカラー受信料は払っているのですが「衛星受信料」だけ払っていないのです。それには次のような経緯がありました。伊藤みどり選手のフィギュアスケートでの活躍が期待されていた「カルガリー冬季五輪」が開催される前にNHK総合放送では「衛星放送」を入れると「オリンピックが完全に見られます」と盛んに放送していました。当時は「衛星放送」は「無料」でした。小生は素直にパラボラアンテナを購入し、衛星放送を受信できるようにし、「オリンピック放送」を楽しみました。その後半年以上経ってから「衛星放送は有料」になったとNHKは言い出しました。「二階に上げて梯子を外す」やり方には納得できないものがありました。その後NHKの受信料係がパラボラアンテナを見て「衛星放送の受信料」を払えと言うのでした。「僕はNHK受信料不払い者でもないし、払うつもりはあります。『だけど無料でオリンピックが見られます』と盛んに宣伝しておいて突然『有料です』と言われても納得できないのでせめてNHK会長名の『詫び状』が欲しい」と言いました。NHK受信料係の人は「おっしゃる通りです」と言ってその後音沙汰がありませんでした。数年経って再び別の受信料係が訪れ、同じように「衛星放送の受信料」を払うように言われました。前回と同じようにこれまでの経緯を話し、NHK会長名の「詫び状」を要求しました。数日後電話があり「『NHK金沢放送局長名の詫び状』ではダメでしょうか?」と言われたので「ダメです。金沢放送局長に騙されたわけではないので」と断りました。そしてその後何の音沙汰もありません。カルガリー冬季五輪があったのは1988年でした。それから17年, 我が家の「衛星放送」は未だに「不払い状態」のままです。
 年間NHK職員が使うタクシー代が43億円であることが国会で明らかになりました。無駄な職員、無駄な経費、民間企業が聞いたらあきれるような体質がNHKには染付いているのでしょう。マスコミで一番偉そうにしているのはNHKと朝日新聞だと言われます。朝日新聞による「政治家のNHK放送番組への介入問題」の提起はNHKの混乱に乗じて右よりと目される安倍晋三氏と中川昭一氏を一気に葬り、次期首相の目をなくそうとした「陰謀」であり、醜いマスコミの現実を見たように思います。
(文責 井上 豊夫)
日付:2005.2.11 題名:春節に思ふ
 2月9日日本中が大騒ぎした日本---北朝鮮のワールドカップサッカー予選リーグの試合は接戦の末、北朝鮮の敗北に終わりました。北朝鮮国内では試合があったことすら報道されていないそうですが、奇しくも2月9日は春節(旧正月)であり、北朝鮮側は新年初日から腹立たしい敗戦で、無念さもひとしおだと思います。

 以前にも申しましたが日本を除くアジア諸国は全て「春節」を祝っており、「脱亜入欧政策」を採った唯一日本だけが太陽暦の1月1日の元旦を祝っているに過ぎません。ですからあらゆる暦が狂ってしまい、正月も節分も端午の節句も七夕も重陽の節句も中秋節も暦上何の関係もない日に祝っており、七夕と関係ない夜空を見上げ、今年は二人が巡り会えるかと「気を揉んだり」しているのは滑稽に思います。

 現在の私の事務所からは日本海に沈み行く「夕日」の美しさを堪能できるだけでなく、海に面するアカシア林の上に昇る「月」も観賞出来ます。月の満ち欠けを日毎に眺め、次の満月はいつ頃か、新月はいつ頃かと数えてみるのは趣きがあります。月を詠んだ歌人で最も好きなのは阿倍仲麻呂で「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」と書かれた石碑を西安の公園で目にした時には涙が止まりませんでした。唐の皇帝玄宗に寵愛され、50年以上仕えた仲麻呂は遠く現在の中部ベトナムあたりまで行き治績を挙げ、何度も帰国をしようとしましたが海難に阻まれ失敗、結局長安(現在の西安)で亡くなりました。李白とも交流があり、海難で亡くなったと聞かされた李白は仲麻呂を「明月のような人」歌に詠んだくらい見事な国際人だったと思います。たぶん現在でも仲麻呂を凌ぐ「国際人」と言える人はいないと思っています。

 銀河系の中のひとつの星として存在している地球に住みながら、辻褄の合わない「暦」を信じて生活しているから日本人はおかしくなって来ているように思います。仕事上は「太陽暦」を使いこなし、生活上は「陰暦」を使いこなすくらいのことが何故できないのでしょう?

 今日は陰暦では正月2日、新月の次の日です。昔、学生時代に国立劇場でアルバイトをしていたことがあり、曲亭馬琴作、三島由紀夫演出の「椿説弓張月」の舞台を思い出しました。細い弓を張ったような月を「弓張月」と言うのだと初めて知ったのを思い出しました。今外を見てみましたが生憎天気が悪く今年初めての「弓張月」は見えそうにありません。

(文責 井上 豊夫)
日付:2005.2.18 題名:米国報告
16日シアトルから戻りました。Shigemitsu USAが設立され、四名の社員が活動を始めたので「どんな具合か?」を見に行きました。マリナーズの本拠地セーフィコ球場はシアトルのダウンタウンにあり、Shigemitsu USAの事務所はダウンタウンから車で20分くらいのRentonという町にあります。平屋建てのアメリカらしい洒落たオフィスで芝生には栗鼠がいるようなパークの一角にあります。近くには飲食店もあり便利で、治安の不安を感じることもなく落ち着いて仕事ができる場所です。

 米国で販売する商品は現在中国の3ヶ所の工場で生産中ですが未だ一ヶ所分しか到着しておらず、全部揃うのは3月の初旬になりそうなので見本だけでワークするしかない状態ですが、シアトルのあるワシントン州の客先を虱潰しに当たっています。「Shigemitsu USA」と言っても誰も知らないわけで、中には門前払いに近い対応をされることも有り、日本のタオル業界では多少名前が知られている「重光商事」の社員として営業活動をしていたのに比べると随分驚くことが多いようです。けれども22年前「重光商事」を創業した頃は誰も「重光商事」を知らなかったわけで「今はお金を払ってもできない経験をしている」と考えるべきだとShigemitsu USAの社員には説明しました。それでも一部の顧客は我々の商品の良さを認めてくれているようで「一筋の明かり」が見えるようです。

 米国に会社を作って一番印象に残っているのは「弁護士」です。日本国内ではあまり「弁護士」のお世話になることが少なく、接触もないのですが米国の弁護士はビザの申請に付き一時間当たりUS$305/hだと事前に通告があり、その後はメールを打つのに0.5h, 社内のデスカッション0.3h等と細かく請求されメールで問い合わせるのも億劫になるありさまで、成果が上がらず金額がかさむ一方なので支払いを保留していたら金利まで請求される有様で世の中に「弁護士」ほど怖いものはないと思うようになりました。以前、街で顔見知りの「芸者」に逢って喫茶店に入り雑談していたら「後で花代の請求が来た」という話を聞いたことがありますが、米国の「弁護士」は日本の「芸者」だと思えば良いようです。只では何もしないのが米国の「弁護士」でコピー代まで請求してくるのですから相当の覚悟が必要です。

 7−9月を除き雨が多いことで有名なシアトルですが今年は好天も多く、滞在中も晴れ間が多く、「タコマ富士」と日本人の間で呼ばれているマウントレーニヤも姿を見せてくれました。今度シアトルを再訪する時はきっと成長したShigemitsu USAになっていることを確信して帰国しましたが、シアトル空港では鞄の埃まで器械にかけて分析するほど厳しいチェックを受け、米国人は永遠にこんなことを続けるつもりかと思いました。

(文責 井上 豊夫)
日付:2005.2.25 題名:シャネルNo.5
初めて外国へ出掛けたのは1973年1月に印度カルカッタへ行った時でした。

両親にも内緒の印度旅行だったので、羽田空港(成田空港はまだなかった)から両親に電話して「今から印度に行く」と伝えました。驚く両親の電話を切り、乗った飛行機が最初に降り立ったのは「香港」だったので、初めて足を踏み入れた外国は「香港」でした。香港の免税店で買ったサテンの袋は今でも銀行印入れとして使っています。男性用の土産品は印度で買った「カフスボタン」でしたが女性用の土産品は香港で買った「香水」でした。その中でも母に贈ったのは「シャネルNo.5」でした。何故「シャネルNo.5」を買ったかと言うとマリリンモンローで有名になった「シャネルNo.5」以外の香水の名前を当時は知らなかったのでした。

母は大阪、江戸堀の生まれで娘時代を大阪で過ごし、女学校を出てから金沢に嫁いで来ました。私は末っ子なので言葉も習慣も違う金沢に馴染む為の母の苦労は知る由もありませんでしたが、姑、小姑なども多く辛いことも多くあったろうと今にして思っています。苦労が多かった上に母は病弱だったので大学の卒業を控えていた私が東京ではなく、故郷金沢での就職を選んだ理由の一つに母の存在がありました。

1977年の冬、母は体調を崩し、入退院を繰り返し、同年8月2日父と私が病院へ見舞いに行った時に突然吐血し、大量の血を吐いて目の前で亡くなりました。人の死に立ち会ったのもこの時が初めてで母は帰らぬ人となりました。入院以来、妻が献身的に看病してくれ、再入院する前に暫く自宅にいた折に「豊ちゃんの事、頼むね」と妻に言ったと聞いたときには涙を禁じ得ませんでした。

母の亡骸を自宅へ運び、仮通夜が営まれました。翌日亡骸は棺に移されることになり、思い出の品を一緒に入れることになりました。母の嫁入り道具の箪笥を開けて見ると手付かずの「シャネルNo.5」が大事そうに仕舞ってありました。

母に贈ってから四年以上の時が過ぎていました。私は「莫迦だなぁー」と心の中で呟きながら「シャネルNo.5」の封を解き、棺の中の母に小瓶が空になるまで香水を振り掛けました。棺の中は「シャネルNo.5の香り」で一杯になりました。

今でも時々海外に出た折に香水を買うことはありますが「シャネルNo.5」だけは母の思い出が強いので母以外の人のために買うことはありません。私にとって「シャネルNo.5」はモンローのものでなく、永遠に母のものなのです。

(文責 井上 豊夫)